「コップの水」・1 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2019/04/20 06:12

例えばコップに水が半分入っている状態で、この水の量が「多い」とするか「少ない」とするかの判断は個人がどう思うか、つまりはその個人が置かれている環境に由来し、一般に豊かな地域の者は「まだ半分もある」と判断する傾向にあり、貧しい地域の者ほど「半分しかない」と思ってしまう傾向にある。
 
仏教で言うところの「餓鬼」の概念は、こうした貧しさ、いわゆる環境によって切迫させられた人間の必要以上の「恐れ」、環境に対する「猜疑心」を現したものと言える。
しかしその一方で、ではコップに水が半分入った状態が、「足りた」状態なのかと言うと、これももしかしたら脳天気な誤った判断であるかも知れない。
この世界のあらゆる現実や事象は全て意思を持たない。
あらゆる現実や事象に対して、それを良いとするか悪いとするかは全て人間の、いや我々一人一人の好悪の感情、事情でしかない。
 
それゆえこの世界で起こる現実に対して、我々は常に確かな、絶対的な結果や結論を求めたとしても、そこに絶対的なものは存在しておらず、強いて言うならより多くの考え方、若しくはより多くの者が支持するに足る説明がなされたものをして、「真実に近い」と判断しているに過ぎず、その判断が正しいか否かと言う問題はそもそも初めから存在していないものであり、我々の理解と言うものは如何なる場合も「勘違い」でしかない。
 
このことを踏まえた上で、此度東北地方を襲った大震災によって放射能漏れを起こした、東京電力福島原子力発電所の事故を鑑みるなら、そこに明確な答えを持った者が全く存在していない。
政府、原子力保安院、大学研究者達の意見はそれぞれに相反したものとなり、あらゆる情報が全て信頼を失った状態となっている。
 
このことは何を意味しているかと言えば、結局日本では誰も原子力や放射能に対して具体的な説明をできるものがいないと言うことであり、さらには研究者や専門家も恐らく政府や原子力保安院、または東京電力と関係する者と、そうした所と対立関係にある研究者があると言う事で、彼等によって語られる放射能の人的影響に対する見解は、ちょうどコップに入った半分の水が、多いと思うか少ないと思うかの対立でしかなく、ここでは正確な情報までもが本来の価値を失ってきている。
 
またこうした情報を元に発表される東京電力や政府の発表は二転三転し、その度に基準が変更される有り様は、人間に対してもっとも信頼を失わせる行為であり、まして人体が一年間に浴びても影響のない放射能の数値基準の引き上げなどは、今の時点で行うとするなら、そこに数値基準そのものに対する虚無感を発生させ、こうした行為を言葉で補おうとすればするほど、そこから信頼は失われていく。
 
更にこうした状況にも関わらず、東京電力の低レベル放射能汚染水の海洋投棄は、明確に国際連合の海洋法条約に違反した行為であり、これに対して周辺諸国が抱く不安は、汚染水の海洋投棄そのものもさることながら、日本政府に対する完全な信頼喪失へと繋がっていく。
 
つまりこれから以降日本政府や東京電力が如何に安全性を主張しようと、言葉そのものの信頼がなくなるのである。
その結果どう言った事態が起こるかと言えば、海外にある日本料理や日本人が経営する飲食店は全て安全性の観点から排除され、日本の農産物は全て放射能に汚染されていると看做され輸入禁止措置が取られる。
 
また場合によっては工業製品までも汚染されているのではないかと言う疑惑が発生し、ここに日本政府や東京電力の不適切な対応は、日本そのものの信頼を失墜させ、資源が少なく輸出によってしか経済的発展の道がない日本は、唯一の手段である輸出までも諸外国の規制を受けてしまう事になる。
 
震災復興の観点から経済的発展が欠かせない日本は、この原子力発電所事故の対応の誤りから、これまでは震災に、そしてこれからは経済的に追い込まれてしまう可能性が高い。

この記事は2011年4月に執筆されたものを再掲載しています。
                                                       「コップの水」・2に続く