「言葉に不安を加える」 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2019/04/21 06:03

 「避嫌者 皆内不足也」     (近思録)
 
「嫌を避ける者は、皆内足らざるなり」
すなわち人から嫌われること、或いは良く思われないからと言って、これを避けようと考える者は、未だかつてその心底が未熟であると言う意味である。
 
朱子の「近思録」は「論語」の中にその書名を持っているが、この言葉の本質は「切に問いて近く思う。仁その中に在り」と言うことで、「眼前の現実に対して重大な問題意識をもち、まず身近なことから考えて行けば、おのずと優れた人格が生ずる」と言う意味を持っている。
 
人間の行動と言うものは大方の場合「現実」を無視したものとなり易いが、その道を誤らせる最大の要因となるものが自分が思う他人の自分に対する評価、いわゆる人の目と言うものであり、これは結局自身の心の卑しさから来る自分への「疑」である。
つまり人は己の心の卑しさを他人と言う「鏡」に映して見ているのであり、人から良く思われたいと思うその心が、既に自身の内にやましいものや卑しさを抱えているからに他ならない。
 
例えば人を率いていかなければならない立場の者、彼に必要なのは「人気」ではなく「尊敬」と言うものであり、この尊敬と言う言葉の半分は「神」に対する人の在り様に近く、現実の形を持たないが「威」、すなわち「他人をしてそれを思わせる」と言う事が必要となる。
「威」は元々薄く弱くでも多くの者がそれを認める、若しくは容認できる事をして始まるが、やがてそこから「威」を支える者たちの無関心が始まると、今度は「暴力」が「威」を支えるものとなってしまう。
 
しかしこうして暴力に支えられた「威」は、「威」が末期を迎えた状態と言え、同じように「威」が崩壊する原因として、暴力の対極にあるのが冒頭の「避嫌者 皆内不足也」である。
人の営みは個人の暮らしから始まって、その国家統治に至るまで、基本的には「Yes」か「No」の組み合わせでしかない。
 
然るに人間と言うものは眼前の現実を眺めながら、そこに人間関係も加えてしまう、或いは情を加えてしまうが、このことが判断を誤らせ、本来「はい」か「いいえ」でしかないものに逃げ道を作ってしまい、それが迷いとなって言葉に表れたときから、自分が人からどう思われるかと言うことに捉われてしまう。
 
つまりは人から良く思われたいと言う事は、自身の迷いそのものと言え、ここに多くの人はその言葉に「威」を感じなくなり、その「威」を回復しようとして更に言葉を加えるなら、「威」は限界まで奈落の底へと落ちて行く。
ただ一人の女すら愛することのない者が、万人の愛を説くなど甚だ笑止であるのと同じように、多くの者に良く思われたいと願う者には、本質や現実が無くなってしまっているものである。
 
自分の良いところだけを見せようとする、或いは自分に取って都合の良い状況だけを人に見せようすることは、実は意外に大きな力を要するものであり、ここに力を注いでいる者は常に現実がおざなりになってしまうことから最後は失敗が多い。
そしてこの失敗をカバーするために「良い人間性」を見せようとして行くと、自身が気づかない内に他人の奴隷となって行く。
 
日本人が好きな言葉である「誠意」などと言うものは、常に矮小な意思の者にとって、知らぬ間に陥っている他人に対する奴隷状態を指している事が多い。
 
この情報と言葉が氾濫する現代社会にあって、より多くの言葉は「現実」を軽くし、現実を離れた言葉は「言語」ではなくなって行く。
およそ言語は自身を表現し、「他」との間で相互に意思の疎通をはかるものであるとするなら、そこには言葉を担保する「責任」が生じ、この責任とは「言葉」に対する「行動」を指している。
 
従って「責任」を持った言葉とは「より多くの言葉」とは逆比例のものであり、ここで自身の保身をはかろうと考えたなら、その言葉は自身が下した決定の末尾に「しかし」や「ですが」を加える事になり、こうした言葉は本来の決定に「不安」を加えるものであり、結果として失敗を恐れ、万一の言い逃れを考えた言葉は、どうしても不確かなものとしかならず、こうした言葉を積み重ねていくなら、最後は自分自身が「矛盾」そのものになってしまう。
 
「君主は賢明たり得ずとも賢人にさしずし、無知で有ろうとも知者のかしらたり得る」
「臣は苦労を重ね仕事をし、君主はその仕事の成果を誇り、尚その君主は賢いと言われるのが世の常である」
これは秦の始皇帝の時代に活躍した思想家「韓非子」(かんびし)の言葉だが、彼は人間性悪説の観点から徹底的にこれを追求した思想を持ち、策略によって国を治めることを説いた。
 
彼は結局最後、秦の始皇帝の家臣の策略によって毒杯をあおり死んでいくが、その悪のもっとも深いところが限りなく「善」に近いところにあるとするなら、そしてその完全なる善と、もっとも深い悪がもたらす結果が同じものであるとするなら、徹底的に人間を疑った韓非子の在り様はまた人間ができる限界の領域とも言え、こうした観点から「君主は賢明たり得ずとも賢人にさしずし・・・」の言葉を考えるなら、その対比するところに、もっとも合理的な君主の姿を見ることができる。
 
リーダーは何をすべきか、すなわち韓非子の言葉の裏を見るなら、リーダーとは「決断」が全てだと言うことである。
リーダーのすることは「Yes」か「No」のどちらかしかなく、そしてこうした決断が成就するか否は、ひとえにその後「しかし」「ですが」などの不安な言葉が、続くか否かにかかっている。
それゆえ万一の事を考え、自身の保身を考えた言葉は「初めから成功を放棄した」言葉にしかならない・・・。
 
「多くを語る者はその多くをなし得ない」
日々の暮らしを堅実に送る者の言葉は、実現しない大きな理想を語る者の言葉より、小さかろうとも常に重い・・・。