2019/04/23 06:27

昨年12月の前半、父親が突然脳梗塞を起こし、3ヶ月ほど入院生活となり、この頃から以前直腸がんを手術していた母親は、腸閉塞を起こしやすくなっていたことも有り、この上自分までもが入院したら家庭が大変になると思ったのだろう。
好きだった甘いものも食べないようになり、食事の時もほんの少ししかご飯を食べず、やがて言動が少しづつおかしくなっていった。

そして今年1月頃からは「おれを殺してくれ」と私に言うようになり、寒い時期は心臓病の妻の容態も良くないことから、私は三度の食事を作りながら娘を学校に送り、父親の病院へ通って、母親も精神科医と内科へ連れて行くと言う状況に陥ってしまっていた。
仕事はおろか、食事の支度すらできなくなってしまった母親は私に、「すまない、お前にばかり迷惑をかけて・・・」と、沈み込む日々を送っていた。

しかし悪いことは続くもので、今度は高校生活が終わり、他府県暮らしをしていた長男が2月に体調を壊して、これも家で療養することになった時から、母親は「ああ、この家は完全に壊れてしまったんやな・・・」と呟き、玄関を上がる短い階段に腰掛け、長い間うつむいているような事が多くなった。

腸閉塞の恐れは未だに続き、排便が上手く行かない、うつ病も全く良くならない、私の妻は寝込んでいる、孫の一人も体調をこわして家でゴロゴロしている。
やがて病院から退院してきた父親は右半身麻痺で杖をついてやっと歩けるが、着替えや風呂は一人でできず、食事は左手でスプーンを使っている状態にも関わらず、母親はここでも何もできず、そこでイラつく父親はいつも母親を怒ってばかりになり、家中が一挙に絶望的な感じになって行った。

また4月の前半に苗箱に撒いた稲苗の発育は例年になく悪く、これは恐らく寒い気候のせいだったのだが、このことが母親にとっては一番気にかかったのだろう、「田植えに間に合うだろうか」と心配するようになった。
昨年までは父親が健在だったが今年は私と母親しかいない、いつしか母親はどうにならないにも関わらず、毎日苗が入ったビニールハウスの前で一輪車を置き、そこで半日も座ったままと言う状態になり、ここにきてやはり5年ほど前に受けた膝関節手術の痕が傷み出した時は、「もう医者にはかかりたくない」とまで言い出すようになってしまった。

それゆえ私はうつ病の人が自殺を考えるときは朝が多いと聞いていたので、少なくとも母親よりは早く起きるようにしていたのだが、自身の仕事の焦りから疲れ、1時間寝過ごした、その1時間が母親を殺してしまったのだ。

母親は恐らく父親が脳梗塞になるまでは幸せで、それなりの自負心もあったのだろう。
周囲には一人暮らしや家庭的に上手く行っていない家が多い中、私と言う後継者が有り孫もいて、それらが曲がりなりにも人並み以上と思えていたのだろうが、それが一挙に狂ってしまって、農業や仕事、父親の介護に妻の看病もしなければならない私の姿に、この上自分までもが3種類もの病状で病院へ連れて行って貰うことが、もう到底耐えられなかったのかも知れない。

昨年から徐々に痩せていった母の体重は15kgも減少し、顔は小さく浅黒くなり、目はいつも死んだように虚ろか、それでなければ人目を気にしたようにキョロキョロ落ち着きが無くなってしまっていた。
恰幅がよく、豪奢な以前の母親の姿はもうどこにも無かった。
「あんまり気にするな」と言っても、「すまない、すまない」と言うだけだった母親、首を吊った時の姿は泥だらけの農作業姿に裸足で、本当に小さくなってしまっていた。

おそらくその朝も先に稲苗の発育状況を見て、悲観したのだろう。
足元には農作業用の被りものがたたんであり、靴下と一緒に並んでいた。
「70年近くも生きてこれがその結果かい、何でもう少し我慢できなかったのか、こんなみすぼらしい格好で、裸足で、こんな惨めな姿で一人で死んでいって良いのか・・・」
警察から事情を聞かれながら、私は納屋のトイレに時々入り込み、そこで声を上げて誰に遠慮することもなく泣いた。
ほどなく母親は助からなかったことが、警察官によって知らされた。

そして葬儀の間中、あの煌びやかな装飾や僧侶の荘厳な衣装を見ながら、母の死んでいったときのあのみすぼらしく、惨めな姿が如何にしようとも拭い去れず、その度に私は絞るように嗚咽がこみ上げ、涙がこぼれた。
「おれを助けよう、これ以上自分が負担になってはいけないと考えたか、そんなところが大ばか者だと言うことが何故分からん・・・」
「あんなみすぼらしい姿で、裸足で・・・」
私は葬儀の間中、こんな事を繰り返し呟いていたに違いない。

                                                   「我が形を為すもの」3に続く

※ 本文は2011年に他サイトに掲載したものを再掲載しています。