2019/04/24 06:20

毎朝決まって4時45分頃、一羽のカラスが「があー」と鳴きながら家の窓近くを飛んで行く。
いつもその少し前に目が醒めている私は、このカラスのひと鳴きで布団を上げ、そしてまず最初に納屋の窓を開けることから一日が始まる。

納屋では10羽以上のツバメ達が「遅い!」と抗議するように私の頭上すぐ近くを飛び交い、窓が開くと、まるで矢のような速度でみんなが一斉に外へ向かって飛び出していく。
夜になって帰ってきたツバメ達を狙う者は多く、窓を開け放しておくと蛇や猫などが入ってくる事から、夕方暗くなってツバメ達がみんな帰ってきたら、窓を閉めるのが私の仕事ならば、朝になってそれを開けるのも私の仕事で、この仕事は以前であれば毎年母がやっていた。

しかし今年からは既に母は亡く、父親も杖をついてやっと歩ける程で、結局自分が一番早く起きてツバメ達の世話をするしか無いのだが、こんな些細な事でも毎年続けていた母を、今更ながら凄いと思わざるを得ない自分がいる。

それから血圧の低い妻は朝早く起きられないことから、朝ごはんの支度をするのだが、その途中に顔を出すのは高校2年の娘で、少し手伝ってくれる事もあって、30分ほどで朝ごはんの支度を終えた私は、稲の苗に1時間かけて水をやり、かえってきたら父親に食事を食べさせ、それが終われば既にもう朝は7時頃だろうか、そして毎日夕方6時過ぎまで農作業が続く。

春は農家にとって秋と同じくらい忙しく、田起こしに始まり「しろかき」をし、肥料を撒いて水を張り、田植えをしなければならない事から、毎日が戦争のような忙しさだったが、どうやら昨日29枚ある田んぼの全ての田植えが終わり、水を張ったその畔を歩いていると、後ろから僅かなそよ風が自分の背中を押すように吹いてきて、その余りにも穏やかな夕方の景色は私をどこかで少しだけ寂しくさせる。

思うに人の寂しさとは大きな悲しみよりも、むしろこうした僅かな寂寥感の中にあるのかも知れない。
母があれほど心配していた稲の苗は気候が暖かくなるに従って順調に生育し、結局昨年よりは1週間ほど遅れたが、何とか田に稲が植わり、一面鏡のようになった水面が映す夕焼けの色は、どこかで母親の匂いを感じさせた。

毎年家では田植えや稲刈りが終わると、家族で寿司を取ってささやかな慰労をしていたが、それを思い出した私はこの日風呂に入って着替えを済ませると、家族と事業の方のスタッフ分の寿司を買いに行き、そして何を考えていたのだろうか、饅頭を20個も買って来てしまった。
甘いものが好きだった母に供えようとして思わず買いすぎてしまったが、これが100個でも決して多いものでは無かったと思う。

それから夕飯はみんなで寿司を食べたが、母の遺骨の前に饅頭を積み上げた私は、やはり「バカだな、饅頭も食べられなくなって」と思い、また寿司を食べながらも何も美味いとは感じなかった。

だがここまでだ・・・。
母が死んでから以降、少しは恨みがましく姿でも見せるのかも知れない。
そしてもしそうしたときが有ったなら、自分も愚痴の一つも言ってやろうと思っていたが、全く何の気配もなく家から消えてしまい、父親が気にして大工さんに作り直して貰った納屋の階段のすぐ真上には、ツバメが巣をかけている。
どうやら母の旅は完全に終わってしまったようだ。

思えば今年の1月ごろだろうか、ブログの師匠とも呼べる人から「物事が煩雑になったら捨てていく事や、諦めていくことも大切だ」と言う言葉を頂き、それに対して私は「自分は欲張りだから全て手放さない」と言ったことがあったが、あれは間違いだった。
忠告は聞いておくべきだったが、時既に遅く、大きなものを失って始めて気づく事になってしまった。

おそらくこれから先、何か美味いものを食べる度に母を思うだろう、何か楽しい場面に遭遇してもやはり母のあの惨めな姿を思うだろう。
しかしもう女々しいことは考えまい。
私は「生きていこうと思う」
眼前に広がる現実にただひれ伏し、それこそが我が全てと思い、また駆け抜けて行こうと思う。

母の死と言う個人的な事で多くの方から励ましの言葉を頂き、本当に有り難く思いました。
そしてこうした個人的なことで、多くの方を自分の感情に巻き込んでしまい、不快な思いをさせてしまった事を心から陳謝します。
母の話はこれで終わりです。
次回はいつになるかは分かりませんが、また以前のように色んな視点から記事を書いて行きたい、そう思っています。

いろいろお言葉を頂き、本当に有難うございました。

※ 本文は2011年、他のサイトに掲載されたものを再掲載しています。