「理性の否定」 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2019/05/09 06:06

例えば「立派な大人になりなさい」と言った時、その言葉を発した本人の中では「立派な大人」と言うものに対する具体的な概念が存在している。
しかしこれを聞いている者にとっては「立派な大人」は限りない漠然性を持っていて、言い換えれば、それは無限に連続しているものとなる。
つまり片方で具体的な概念が存在していても、それはすべての人が理解し得るものではなく、無限に連続する概念は存在しないことと同義となる。

従って人間の言語は、全て大小のフレームに収まっていることで相手に伝わり、このフレームが小さければ小さいほど、その概念は明瞭化し意思が正確に伝達、もしくはその意思や概念が共有されやすくなる。
カメラのファインダーやモニターには、すべての景色から切り取ったフレーム内の部分が撮影されるが、これで全景が写るとそこに撮影者の意図が失われ、余分なものを排して始めて、そこに撮影者の意思が感じられるのと同じである。

それゆえ、人間が「正義」や「愛」を口にしたとき、そこには全ての場面、立場に措いて既に結果や取るべき行動が決定されていて、しかもこれは連続して細部に至るまでに及ぶ事から、人間がそれぞれに持つ自分のフレームが「他」と共有される事は有り得ず、この意味に措いて人間のフレームは、その大きなものは多くの異なるフレームによって共有されたように「誤認された状態の共有」を生じせしめ、逆に小さなフレームはそれが個人的な感情に近い分だけ「他」との共有を少なくするが、その共有の濃度に措いて大きなフレームより深さを持つ。

また一般的に「感情」で言語を使うことと、「理論的」に言語を使うことでは、感情を主体とした言葉には合理性が無く、理論、知性が有ることをして、そこに合理性や真実を見てしまいがちだが、人の世の正義や愛と言ったものは、大きなフレームでは漠然とした共有感を持つことが出来ても、その正体は千差万別の「感情」に繋がったものであることから、ここに「正義だから勝つ」「愛が人を救う」と言った理論は初めから成立していない。

しかし人間は理性や正義、愛と言ったものに対し、そこに真実を思い、合理的であることをしてその根拠を求めるが、理性、正義、愛は何をしてその存在が確かめられるかと言えば、その反対の状態が有って始めて成立する危ういものであり、ここで言えることは理性的であることをして、合理的であることをして、愛や正義をして、それが正しいと言うことにはならない。
むしろ理性や合理性、愛や正義は結局何かの他のものの「隠れ蓑」にしかなっていない場合が多い、もしくは常に「誤認」されている恐れを持たなければならないと言うことになる。

人間はその連綿と続く歴史の中で多くの「勘違い」を「常識」としている部分が有り、例えば時間や空間に歪みが有る事が分かったのはこの100年以内のことであり、地球が太陽の周りを周回していることが衆目に知らされたのも、この500年ほどのことで有ることを考えるなら、現在我々が常識としている知識もまた、いずれこの先違った事実が現れる事を予想しなければならず、この事を恐れない者は甚だ傲慢なことになり、真実を求めるとするなら、そこにこうした議論を欠くなら、それは何かを見ないようにして理論を組み立た、非合理的な「仮説」としかならない。

そしてこの社会が持っている「誤認」、これは現代の情報化社会を見ていれば良く理解できると思うが、この社会が理論的常識として包括しているものもまた、初めから勘違いされている部分を多く含んでいる。
いや先の人類の歴史上の「誤認」と同じように、殆ど全てが「誤認」で有る可能性すら有り得る。

また一般的に学術は間違っていないと考えがちだが、これも多くの「誤認を」内包しているものであり、難しい言語を使って難解な文章が書ける事をして、素晴らしい文章だと勘違いしている研究者たちの理論は、推論と、完全にこの宇宙が終わるまで一定普遍だった事実を捉えたものではなく、わずかな入り口の事象を拠とした稚拙なものであり、これが大学などの権威によって、事実以上に信頼を受けている、つまりは「権威に隠れた大きな誤認」へと繋がっているのである。

更にこうして考えて行くなら我々個人はどうだろうか、およそ世界の隅々まで熟知し、あらゆる知識を自身の内に持っている訳では無いのに、それでも国家や人道、愛や正義を語り、自分を疑うことすらない。
結局自分は自分の範囲を出ることができない「井の中の蛙」でしかないことを省みることもなく、自分こそが正しいと思ってはいないだろうか。

理論とか合理性、真理と言うものはこうしたものである。
初めから根拠のはっきりしないものの上に組み上げられた「幻想」「勘違い」であり、ここに真理を求めて合理的、理論的に物事を考えていけば、合理的で有ろうとすればするほど、理論的で有ろうとすればするほど、合理性は失われ、理論は意味を失っていく。

そもそもこの世界の人間の多くは、真理はどこかで探さなければならないと思っているかも知れないが、それが本当に真理なら初めから隠されてはいないはずであり、真理は重いものだとも考えがちだが、誰か真理を持ってみた人間が存在しただろうか。
もしかしたら大変軽いもので有る可能性も有り得る。

道を歩いていたらそこに大きな石が転がっていたとしよう。
この場合の真実は「石が転がっている」事が真実であり、ここに人間は自身や社会生活からいろんな意味を見ようと無理やりもがき、そしてそうした中から真理を探そうとするが、探さなければならないような真理は初めから外に対して開かれている。
なおかつ「石が転がっている」と言う真実を一番見えにくくしているものは、理論的に合理的に真理を探そうとしてきた人類の「誤認」、社会が持つ大きな勘違い、権威に隠れた不勉強、井の中の蛙を認識できない我々個人の無知なる傲慢と言うものである。

そしてこうした人間が宿命的に持つ誤認した状態を「感覚的錯覚」と呼び、ここで私が書いたような事を「理性批判」と言うが、1700年代後半のヨーロッパではこんな事が考えられていたのである。

理性と言う言葉からは何かに対する強い否定や、激昂した感情、愚かさや「悪」と言ったものが感じられないが、それゆえに人間は理性と言う言葉が感じられると、そこに真実や正義を重ね、批判の対象から外し続けてしまう。
しかし理性的であると言うことは一つの表現上の形式であって、それをして正しい、もしくは真実であるとは言えないのである。

今夜は18世紀ドイツの哲学者「カント」(Immanuel Kant)の「純粋理性批判」の扉の前に立ってみました・・・・。