2019/05/10 05:57

「全くあの子ときたら、今に至っても齢(よわい)十三、四の小娘のようで、一体どうなっているのかしら」
「年恵」の母親は近所の人にこう嘆いていたが、時は1898年、「年恵」三十五歳の頃の話であり、母親が嘆くのは無理もない、年恵は三十五歳にして未だに「女の証」が無く、実はその生涯を通して死ぬまで生理が来なかったのである。

「長南年恵」(ちょうなん・としえ)は文久3年(1863年)12月6日、現在の山形県鶴岡市で生まれたが、年恵の周囲には彼女が生まれた直後から不可思議な事が起こってくる。
家がドドーンと言う音を立てて鳴ったり、また部屋に年恵以外誰もいないのに、どこからともなく雅楽の調べが鳴り響いたり、時には誰も出入りしていないにも関わらず、神仏と思しき風体の者が周囲に座っていたりと言う事が日常茶飯事だった。

また人が死ぬ日を当てたり、失せ物なども年恵に聞けばすぐに見つかり、圧巻はなんと言ってもその「聖水」もしくは「霊水」と言うべきか、彼女は人が見ている目の前で空き瓶にいろんな色の水を満たし、それを飲んだ人が次々病を癒していった。
勿論年恵がどこかで水を隠し持って、それを手品で瓶に入れているのではなく、目の前に置かれた空き瓶が、誰も手を触れないのに見る見る水位を上げ、やがて瓶一杯になるまで2分とかからないのである。

そして普通こうした特殊な能力を使う場合は、慇懃なお祈りや精神集中と言った具合の「それらしさ」が有る事が多いが、年恵は何ら誰かに祈ることもなく、ニコニコ笑いながらこうした奇跡を起こしていった。
年恵の周囲で聞こえる雅楽なども、「そう言えば聞こえるような・・・」と言う生易しいものでは無く、10人いれば10人とも、100人いれば100人に全て聞こえるものだった。

ある日こうした年恵の話を聞きつけ、怪しげな新興宗教かも知れないと言う事から、警官が2名年恵の元を訪れるが、警官たちが年恵の家の前を通っているとき既に結構な勢いで雅楽が演奏され、家の中に入って見ると縁側で年恵が足をブラブラさせているだけである。
雅な調べが周囲に鳴り響き、太鼓などは実に強弱の調子が絶妙なのだが、演奏している者はおらず、縁側の年恵の前には大勢の付近住民が聞き入っていて、これには流石に警官も唖然とする。

「年恵、今夜は帰るまでにお風呂を沸かしておいてね」と言って近所の寺に出かけた年恵の母親、寺から帰って見ると確かに風呂は沸いているのだが、かまどに薪が燃やされた形跡がない。
「年恵、あんたどうやって風呂を沸かしたの」と怪訝そうに尋ねる母親、年恵は右手を出すと、「手をかざしたら風呂が沸いたの」と答えるのだった。

更には年恵に少し意地悪をしてやろうと考えた町の若者が、「酒は出せんのか」と言い出すが、ここでも年恵は空き瓶に手をかざしたところ甘酒が出てきて、そもそも酒と言うものを飲んだことがなかった年恵は、「これで良いのか」と若者に尋ねるのであり、この若者は頼んで出して貰ったにも拘らず、甘酒を置いて逃げ帰る。

こうして町でも評判となって行った長南年恵、しかしやがて近代文明を標榜する明治政府の意向に従い、政府から権限を預かる地方の治安当局が動き始める。
年恵は明治28年7月「詐欺師」の嫌疑で鶴岡警察署によって逮捕、拘留されるが、こうした状況にも拘らず、年恵は全く動揺する様子もなく、食事には一切手を付けず、またその容姿のあまりの幼さから、官吏が暑い夏のことゆえと心配し、蚊に刺されぬようにと「蚊帳」を貸そうと言っても、それも要らないと言う。

結局年恵は証拠不十分で釈放されるまでの六十日間、一度も食事を取らずに元気に暮らし、また一箇所も蚊に刺されなかったのである。

だが、ある種天皇や政府さえも超える部分を予見せざるを得ないこうした特殊能力に対し、どうしても認める事ができない当局としては、やがて長南年恵をなんとかして法の下に無意味にしなければと言う意向が働きはじめ、明治33年(1900年)12月、年恵は「聖水」を出現させたことに付いて詐欺罪に問われ、第一審は有罪になる。

しかしこれに対して年恵の弟の「長南雄吉」が控訴し、年恵の奇跡は神戸高等裁判所で争われることになった。
この公判は実に異例な公判だったが、神戸高等裁判所の裁判官は年恵の奇跡の真偽を実験で確かめようとし、裁判官自らが蓋をし密閉した空き瓶を年恵に渡し、それに手を触れずに瓶の中を「聖水」で満たせよと申し渡した。
年恵の目の前に置かれた空き瓶、どうせ何も出来もできまいと思っていた裁判官は次の瞬間我が目を疑うことになる。

年恵は表情一つ変えず、何も動かないのに瓶の中には茶色の水がどんどん水位を増して行き、やはり2分足らずで空き瓶は茶色の水で満たされたのである。
しかもこの時、今なら大変なセクハラだが、年恵が不正を行えないようにと、年恵は丸裸にされてこの実験をさせられていて、この事から逆に実験によって裁判官たちが追い詰められ、結局神戸高等裁判所は年恵の奇跡を認めざるを得ないことになり、これによって年恵は無罪となったのである。

そしてこの公判で丸裸にされた年恵だが、彼女はそうした状態にあっても特に恥ずかしがることもなく、文句ひとつも言うこともなかったばかりか、そもそも逮捕拘留されていても、釈放されても何も変わることがなかった。

いつも誰も疑うこともなく、欲しいと言われれば喜んで誰にでも奇跡を与え、四十四歳になる少し前、死ぬ瞬間まで十三、四歳の少女のようにしか見えなかった年恵、その肉体も少女なら、心もまた純真無垢な少女そのものだった。
「聖水」と言うか「霊水」はごく稀に出ない時があったが、それはどうしても助からない病の場合だった。
年恵はこうした時、なぜ水が瓶に満たされないのか自分でも不思議がっていたと言う。

相手の者が卑しい心であろう、意地悪であろう、妬みや恐れであろうと、ただひたすらに誰に対しても誠心誠意心を傾け、大いなる力を力とも思わず人々に希望を与えた年恵、子供の頃彼女は人におんぶしてもらう事が好きだったが、坂道に来ると彼女は軽くなり、平坦な道では重くなった。
「あっ、軽くなった、重くなった」と言う大人の背中で年恵は無邪気に笑っていた。

そして明治40年(1907年)10月29日、年恵は43歳の生涯を閉じた。
その葬儀には多くの人が参列し、中でその棺桶を担いだと言う人がこんな証言をしている。
「いやー、まことに不思議な事が有るもんで、棺桶がやけに軽くなったり重くなったりするんです・・・」

どこかで年恵の無邪気な笑い顔が見えるようである・・・・。