「妥協する正義」・1 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2019/05/14 06:24

絵を描くとき、例えば人間の肌色はただ肌色の絵の具を塗れば出来上がるのでは無く、肌色の下には下地絵の具が塗り重ねられ、この時使われる色は24色有るものなら、その全ての色が使われ、始めて人間の肌の輝きや影を表現することができる。
為に古より人を描こうとする画家は、人間の皮膚の下の血管や筋肉組織まで知ろうとし、何人もの女性の遺体を解剖し、女性を描いた。

ちなみにレオナルド・ダビンチの「モナ・リサ」は現代科学をしてもそれが筆か木片か、或いは自身の指や手か、一体どう言う道具を使って描かれたが解明されていない・・・。

およそ全ての生産活動、それが絵だろうが工業製品だろうが、医師だろうが農業だろうが、営業だろうが、これらに取って等しく変わらない基本は一番下に有り、つまり下からマズイものはどこまで行っても良いものとはならず、下地や初期段階のマズさを挽回することはまず不可能なものと言えるかも知れない。

ゆえに初期段階の不具合は、初期段階に解決しておく事があらゆる生産活動に措いて一番重要なのだが、人間はこれがなかなか出来ない生き物でも有り、小さな水溜まりを避けながら歩いていると、やがてその先にドブ川が有ることに気が付かず、最後はそれまで守って来たものが全て失われる結果となって終わるものである。

「まあ良い、後で何とかしよう」と思ったものは、結局いつまで経ってもできなくなり、やがてそうした事がどんどん蓄積され最後は解決不能に陥るが、友人関係でちょっとした事が有って、その場で謝って置けばなんの影響もないものをそのままにしておくと段々謝り辛くなり、やがては顔を合わせることもできなくなって、ついには「どうせ良くは思われていないだろう」と言う邪推から、「ふん、あんな奴」と言った具合に自身が謝って置けば良かっただけの事が、最後は憎しみにまで転嫁されていく。

こうした仕組みは政治や経済でも同じことが言え、中曽根康弘内閣時に官房長官を務め、宮澤喜一内閣では副総理を歴任した「後藤田正晴」氏(ごとうだ・まさはる・1914年ー2005年)は、別名「カミソリ後藤田」と言われたほど問題解決能力が高かった政治家だが、彼が官房長官に就任した直後、部下たちにこんな事を訓示している。
「俺が聞いてゾーッとする話からしてくれ」

即ち部下たちが上司に対して一番話したくないような事、どうにもならないほどの状態になっている問題から先に話してくれと言ったのだが、時間経過が問題を更に大きくし、それを避けられるまで避けようとしたら、その先に何が待っているかを良く知る元警察庁官僚、後藤田氏ならではの言葉と言える。

そして問題解決に関して、実は一番近道となるのが、この後藤田氏の言葉が包括している「問題が表面化し易い環境」であり、人間は常に自分が不利な状況に追い込まれるような事態、若しくは経済的利益に鑑み、その問題が表面化する事で経済的損失が発生すると判断される場合、問題そのものを表面化させまいとする意思が働き、これは広義に措いても個人であっても本質は同じである。

つまりここでは問題発生が経済的な部分に影響を与える時、人間はどうしても「理」や「正義」と言ったものを蔑ろにして行く傾向を持っていると言うことであり、「理」や「正義」は確かに現在と言った時間軸上では経済的損失を与える場合も有り得るが、これを避けることは丁度小さな水溜まりを避けていく事に似て、初期段階で小さな「理」や「正義」を妥協していくと、やがて大きな「理」や「正義」もまた少しずつ崩壊し、最後は「無秩序」、「混乱」を招くことになるのであり、実は「理」や「正義」の最大の敵は「理」や「正義」を弾圧する者では無く、「妥協」と言う消極的かつ小さな「諦め」にある。

為に人間に取って最も大切なことは「小さな理」や「小さな正義」であり、これらが経済的利益と比較され、妥協されて行く社会、また「小さな妥協」の集合体によって言葉が発せられない状況こそが最も危険な状況と言える。

また、人間は広義の利益を正義と誤認し易いものであり、現在東北の地震災害発生から続いている日本の「風評被害」などと言う現象、同じく東北の復興の名のもとに、原発問題に対するヒステリックな共益感情のもとに事実が蔑ろにされ、日本のあらゆる問題がその影に隠れてしまう有り様は、共同の利益を正義と錯誤した結果発生する小さな正義の妥協による、大きな秩序の崩壊そのものである。

                                                     「妥協する正義・2」に続く

本文は2011年、yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。