「楽如・枝文」礼節と場 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2019/05/17 20:48


命を惜しんではならないが、不用意に失って良いものでもない・・・。


一人で座る時は壁を背にして自身の視界をを広く持ち、これは二人で座る時も同じであり、夫婦、恋人同士であっても決して並んで同じ方向を向いて座らない。 

万一の時はどちらかが楯になり、片方が残れるように計らねば残された子供は生きて行けず、恋人なら、それは親からの預かりものゆえ、これらの場合は男が視界の悪くなる窓を背にして座り、それ以外の関係者なら常に自分は壁を背にすると良いが、そうした機会は意外に少ない。


なぜなら二人で座っている段階で親しき者か親族、そうでなければ自身が大切にしている人間だからで、敵と一緒に食事できる機会は殆ど無いからであり、自身が窓を背にした時は、壁側に座っている者の表情に留意して置くことで、自身の危機を知るよう心がける。


3人以上で1つの部屋にいる場合、自身は奥へ入ってはならない。

部屋のドアノブが付いている反対側、1m~2mほど離れた所に立つのが正しい。

万一災害の時は一番最初に避難が可能であり、ドアノブが付いている反対側に立っていると、いきなり侵入者が入ってきてもドアノブ側にいるよりは発見が1秒ほど遅れる。

侵入者の場合は開けた瞬間に撃退する事も可能で、ここでも侵入者と入れ替わりに逃げ易い。

ついでに同席している他者からすると、奥へ入るよりは慎み深く見え、他者より先に腰を下ろさない事で、他者に敬意を表すことが出来る。


この様に世の中には自身の身を守りながら、他者に敬意を表すことが出来る「場」と言うものが有り、普段からそうした「場」を考えて措くことは肝要と言え、もっと言えばこうした自分の姿に気付く人間、或いはそう言う「場」を選択する人間を見逃してはならない。

将来敵になる、ビジネスパートナーになるにしても、そうした人間こそが自身一番のライバルであり、理解者だからである。


臆病者、油断の大きな者、不遜な者は必ずこうした「場」と真逆の所に立つものであり、身なりや年齢、性別ではなく、こうしたものの見方をして置くと、将来自身に取って一番大切な人間を見つける事が出来るが、そうした人間はとても少ない。


臆病者は距離を安全と考えるが、実際に命の危機を潜り抜けて来た者、その覚悟の在る者は「現実」を選ぶ。侵入者が真っ先に見る物はその視界の前方であり、左右の注意は今ひとつ遅れる。

それゆえ、部屋の真ん中に座っていては標的になっているようなものであり、歩道でも真ん中を歩いていれば同じ事、常に後ろに注意を払いながら歩く、つまりは自身とすれ違う人の表情に注意しながら歩く事が肝要なのであり、しかもすれ違って行く人に、自分が見ている事を気付かせないように歩くのが良い。


神社参拝では参道の真ん中を歩くを禁忌とするが、禍とは神と同じものであり、これを畏れる、恐れるは同じ事と言え、部屋の真ん中で座らない事は、敬意を現しながら禍を避けるに全く変わらない。


礼節は煩わしいと思われるかも知れないが、意外にもそれは敬意を表す事に拠り不用意に敵を作らない事、いつか周囲を自身が遣う時の用意となるものにして、禍を避ける術とも言えるのである。


試しに常に自分は戸口の近くに立ち、一番先にソファに腰を下ろさないだけでも、周囲の印象は違ってくるだろう。


大切な命は自身が一番大切な時に必要になるものゆえ、いつも不用意にこれを失わない努力は臆病ではなく勇気であり、人を信じない事は人に対する最大の「信」とも言える。