2019/05/23 05:20

数学で7の次の数は8だが、これを漢字で書くと「七」と「八」になり、実は漢字で書かれる「七」と「八」の数字はその数学的な要素も然ることながら、意味に措いても隣り合う関係に有る。

漢字の「七」は「切」と言う漢字の原字であり、その原初の形は川の流れをせき止めるせきの形を現し、ゆえに切断された状態の材木を現す「材」の右側の文字がそれに相当し、この意味するところは「十」を切り止めた状態、つまりは「せき止める」事を指していて、後年出現してくる「閉」と言う文字などは、「門」と「せき止める」を合わせてそれを表現したものである。

そしてこれが更に「裁」の字に及ぶと、「戈」(ほこ)が二つ並んだ状態が原型になり、これはつまり布地などを切る、木材を切るなどの意味がその原型となっているが、同じように切ると言う意味に措いては「制」と言う漢字も木材などを中間でズバッと切る様を現し、同じ制の流れである「製」は元来布地を切る事を指し、「制」は相手の言動を途中で切断する意味だった。

だが「七」が面白のは「十」の系列であることはもちろんだが、その数字上の性質である。
「七」はどこまで行っても割り切れない奇数であり、大変不揃いな比率で中断されている事から、これを「切」に当てはめた古代中国の感性は、数学を自然の摂理や人間に当てはめたような鋭さを持っている。

「七」は割り切れない状態、不揃いな状態で止まっている大変「不都合」な状態であり、これはどう言うことかと言うと、つまりは「切」と言う行為は大変困難な行為だと言うことをも指しているのであり、自然の状態や流れに逆らう事をする、或いは元々有ったものを強制的に違う形にする為、それはどうしても不自然さや無理を伴うことだとも言っているようなのである。

これに対して「八」はどうか・・・。
「八」の意味は左右をきれいに分けることが可能だと言う事を指していて、これに刃物で切り分ける意味の「刀」が加わると「分」になり、数学上の8が漢字の「八」の字に相当されているのは「八」が偶数であり、それが均等に2つに分けられるからである。

ここで先に出てきた「七」との違いを考えてみるなら、同じ切り分けるにしても、少なくとも「七」より「八」の方が自然の流れに少しばかり逆らっていない、わずかに肯定されるかもしれないニュアンスで分断される事を指していて、こうした漢字が隣合せになっているところの感性は流石と言うしかない。

「七」は積極的な意味合いが有り、「八」はそれに対して受動的な意味合いが有り、「七」は力を感じるがどこか自然の流れには逆らっていき、「八」にはまるで切り込み線が入っている部分を切るような自然さが有る。
この対比の美しさとそれが隣接していることの在り様は、ある種「自然が持つ理」とも言うべき深遠さを持っている。

また半分の「半」を見てみれば分かるように、「半」には上の部分に「八」が入っていて、この事から八はどちらかと言えば、半分に分けられる事が初めから想定されたものと言うこともできるが、「二」と言う漢字を縦にすれば「八」になる訳であり、これの鳥が羽を広げた状態を現したものが「非」と言う字になる。

だから戸が左右に分かれて開く形式の戸を「扉」(とびら)と言うが、この漢字はあくまでも戸が左右に開く形式の戸を指しているのであって、片方しか開かない戸は正確には「扉」とは呼べず、勿論左右に動いたとしても自動ドアは「扉」ではないのであり、「扉」(とびら)は「戸」と「非」で現される事からこれを「び」とも呼び、否定を示す場合にも使われる。

その意味するところは「いやいや、それは違います」と言う時に、手を左右に払って拒否を示すからであり、この事は何かを手で分ける仕草であることから、そこには「七」のような積極性を感じられなくても、明確に「切」の語彙が存在している。

そしてこうした何かを分ける仕草と言う点では、「弗」(ふつ)と言う漢字でも「扉」と同じ意味合いがあり、これはS字型にたれた紐を手で「八」の字型に両側へ開いている様を現している。
すなわち両手で左右に払いのける事を指しているのであり、中国では古来から否定を現すときに、手を左右に払ってそれを示す習慣があったと言うことで、これに「手」を加えると「拂」(ふつ)となり、それが「払」(ふつ・はらう)となっていくのであり、基本的には「払」は否定を指している。

更に人間が背中を向けあっている状態が「北」だが、これは「そむく」と言う意味合いを持ち、「そむく」の意味は背中を見せた状態であることから、戦に負け敵に背中を見せて逃げる事を「敗北」と言うのであり、この「北」に後世文字の肉付けをしたのが「背」だが、これは元々同義である。

「切」に始まり、その消極系の「分」に連なり、その「分」がまた少しづつ積極性をもったものが「北」になるが、これらはいずれも「関係の良くない二」と言うことになろうか・・・。
また「仏」は別に「佛」とも現すが、これで言うと「全てを払いのけた人」若しくは「全てを切り開いた人」、更には「否定する人」と言うことになるのだろうか、中々言い得て妙なものだ・・・・。