2019/05/23 05:22

小学生のおり、習字が苦手な私はよく漢字の筆順を間違え、教師から注意されたものだが、実はこの漢字の筆順に絶対的な決まりは無く、基本的にはどう言った筆順で有ろうと、それが認識されれば本来の目的を達し、逆に幾ら素晴らしい筆致であろうと、それが対象者に認識されなければ文字としての役割を失う。

ゆえに同じ漢字でも筆順が二通り、三通り有るものも存在し、それが認識されることを至上とするなら、例えば毛筆は墨で描いた風景や人物画の延長線上に有ると言えるかも知れない。

そして筆順は確かに絶対的なものではないが、そこには長い歴史を通して多くの人々によって、最も合理的で効率的な手法が洗練されていることを踏まえ、一度はそれに従って見る事が大切であり、その歴史や慣習を壊すことによってその価値を知るにしても、まずは長い慣習によって洗練されたものを経験して見ることの意義は、他の如何なる事に措いても同様、大きな意義を持つ。

さて今夜は「関係の良い二」に付いてだが、「従」と言う漢字の原字は「人」が2つ並んだ状態を指していて、これは一人の人間にもう一人の人間が付き従う事を示しているが、同じようなところでは「比」と言う字も、人が2人並んで同じ方向をむいている事から、例えば「比」使った漢字で「比較」「比例」などが有るが、これは未来形に措いて別の帰結が求められるとしても、ままずは「並んだ」状態を意味している。

同じような意味では「林」も「木」が二つ並んだ状態を指していて、これはほぼ同じものが2つ並んでいる事を現しているが、「林立」は同等のものが並んでいる様を現し、これは「夫」が2つ集まったものも、やはり「並ぶ」事を意味していて、例えば「交替」などの「替」は、一人の後に即時入れかわる為のもう一人が待機している状態を現している。

また「連」と言う字の祖始は「連」の上に「夫」が二つ並んだ字であり、これは行列を為して並んで通る貴族の乗り物を指していたが、「連」の字は「並んで」に継続する事が加わった漢字であり、これもまずは同じものが並んでいる事を指している。

従って「関係の良い二」とはつまり、ほぼ同等のものが「並んでいる」様相を表していて、数学上の「対比」のような概念が存在し、これが更にその形態を失ってランダムになっていく様が、漢字の「三」につながっていく。
漢字の数値的発展段階を見るなら、「一」はこれが全てではないが「個」、「ニ」は「対比」、そして「三」は「集合」と言うことができようか。

例えば「三」と同義、「三」を原字とする「森」は「木」が3つ集まってたくさんの木が生い茂っている状態を現しているが、この状態は「林」などに見受けられる「ほぼ同等のもの」や、「並んで」と言う形態や状態から開放されている状態であり、この事から「三」(さん)と「森」(しん)と言う発音上も近い漢字は「多くの」と言う意味を持ち、「森羅万象」などの「森」はまさしく単に数値だけでは無い空間的な広がりを持っているのである。

更に「三」が「さんづくり」に形を変えると「彩」や「影」などの漢字になるが、「彩」は多様な色や模様の集まりを示し、「影」は多様な景色、つまりは多様な「光」の状態の集まりを示し、「形」では多様な物の在り様を現していることから、「三」と言う漢字は様々なものの集まった状態を示してもいるわけである。

同じように人が3つ集まれば「衆」となり、これは人が沢山集まっていることを示しているが、「衆」の字に太陽を意味する「日」を添えれば、太陽の下で集団労働をする群集を意味し、更にこれは意外かも知れないが「旅」と言う漢字の由来は、元々ヒラヒラなびく旗印(ふきながし)に集まった三人の人を現していて、この意味するところは「軍隊」である。

将軍の旗の下にはせ参じ、旅団を形成した人々の事を指していた。
軍隊はその本来は「軍旅」と言い、「旅」とはそもそも多くの人の集まりを指す漢字なのである。

古代中国では遠方へ移動する場合、50人、100人ほどの人が集まり、そこで隊商を組んで移動したが、この時こうした隊へ集まった人々を「旅」(りょ)と言った。
それゆえ後世一人でも移動する時は「旅」の漢字が使われることになったが、その本来の意味は「多くの人が集まった様子」、つまりは形容詞に近い使われ方だったものが、現在のように一人で移動する場合でも同じ漢字が使われるために、動詞的な用語になって来たのである。

ちなみに「三」の重要な意味である「集まる」の「集」だが、この字は元々「鳥」と「木」で構成され、しかも「木」の上には3つの「鳥」が描かれ、これで木の上にいるたくさんの鳥たちの状態を表していたが、後世この3つの鳥が省略されてひとつになり、現在の「集」となっている。

人間がその知識が全く無い状態、生まれて始めて描くのは縦であろう横であろうとも、不完全な線だと言われている。
それゆえあらゆる人類の文明は、その数字の最初にはただ一本の線を基本とした文字を当てる事が多いが、これが2に移る頃から少しづつ違う形態になっていく。

即ち対比する対象が現れた事により、そこには「1」よりも不安定なものが現れ、それが3の「集合」になると更に不安定さを増すが、その一方で多様性が発生し、全体としてはより大きな確率の安定を手に入れることになる。

だが人間の社会が常に不安定なのはこうした「1」ではない数にそれが起因しているように思えるが、この事を考えるなら、やはり「1」と言う数字は他の数字とは違った性質、違った位置に立っているような気がしてならず、そもそも全ての数字には少なからずそこに個性が有るように思えるのだが、こんな話を続けていると「また始まった」と言われそうなのでこの辺にしておこうか・・・。