2019/05/23 21:07

「忠孝両全」と言う言葉が在る。

逸話としては紀元前500年頃の「楚」の国で既に出てくる言葉では有るが、意味としては親孝行と忠義の本質は同じものである事から、親孝行を為す者は忠義もまた全うできると解釈される。

だが、この言葉は詭弁である。

忠義と親孝行は相対する命題であり、どちらか一方を選べば片方は全うできない。 

秦が崩壊して前漢が成立する過程で西楚を名乗った項羽(こうう)が、対立する劉邦(りゅうほう)側の将の母親を人質とした時、やはり忠孝両全の原則から、項羽はこの母親を丁重に扱うが、母は息子である将の邪魔になるまいとして自決する。 

更に時代は下り、蜀漢成立過程の前期、劉備玄徳の初期の軍師となった徐庶(じょしょ)も魏の曹操に母親を人質として取られてしまう。

この時も曹操は忠孝両全の原則から、取り込もうとする相手の母親を丁重に扱うが、徐庶は孝行を選択し、劉備玄徳の元を離れ、魏の曹操に下ってしまう。


このように忠孝の関係は「自由」の2つの概念と同じで、個の自由と公の自由が一致しないばかりか、衝突する関係に有る事と同じ過程を持つ。

では何故古くからこの言葉がいそしまれたのかと言えば、これが中々両全しないからこそ美しく価値が有ったからである。 

同様に「仁」「義」「礼」「智」「忠」「信」「孝」「悌」は、そのそれぞれの徳が非常に近い関係に在りながら、最も遠い関係に在るものが集められている。

それゆえ、こうした徳目は近い関係に在りながら対立する関係こそが正常と言え、これが一致する社会こそが混乱している状態と言える。

日本で忠孝両全が最も身近だった時代は太平洋戦争の時代であり、挙国一致、親を守りたかったら子供は戦え、子供を守りたかったら親は戦えの時代こそ、忠孝両全と言う本来は一致できない命題が一致してしまう時代なのである。 

また現在、忠義も親孝行も失われた時代ともなると、やはりこうした現実には両方並んで存在できない命題が、本質的理解をされないが故に両全が叫ばれ、深い思慮の無い薄い表面上の概念から、一致しているように見えてしまう事になる。

忠孝は決して両全できない。

それゆえ深い葛藤と苦難を生じせしめるのであり、この葛藤と苦難が存在するからこそ価値が在るのである。

何の苦難も葛藤も伴わないものは、初めから忠義でもなく孝行でもないから、何も抵抗が無いと言える。 

厳密に徳目を理解するなら「仁」と「義」は並び立たない、「孝」や「悌」には「信」の必要が初めから存在しない、「義」と「智」は相容れない、「忠」は「仁」に在れば全うできない、「礼」はあらゆる徳目の意味を制限する。 

人間は「仁」「義」「礼」「智」「忠」「信」「孝」「悌」の内、たった2つだけすらも同時に全うする事は出来ない。

だからこそこうした徳目が大切なのであり、親は子を思い、子は親を思い、上司は部下の事を思い、部下は上司の事を思う。

個人は公を思い、公は個人を尊重する。

元々対立する命題であればこそ、互いに相手を思いやる事が大切なのであり、徳目とはこうした中でしか存在できず、さらにこのような厳しい過程を得て、どちらか片方は絶対全うできない事を知って猶、なのである。