2019/05/24 05:20

実は人類を滅ぼすものは戦争や貧困、食料危機ではなく、「平和」や「安全」「豊かさ」と言うものかも知れない。
雑草はあらゆる人間の排除に対し、徹底的に蘇生してくるが、大切に保護されている人間の作物は人間の手が加わっていかなければ生きることができない。

この事を鑑みるに、古代ギリシャの人々の哲学観の中に存在していた、人間の中に在る「秩序」と「破壊」は、ある種その種族が生き残る為の絶対的事実と、システムの同時発生、一致した存在と言うものなのかも知れない。
即ち人類に取っては「秩序」も「破壊」も同価値を持ったものであり、もっと簡単に言うなら安全で幸福な暮らしと、多くの人々の命が失われる巨大天災は等しい価値を持っているものかも知れない。

ミクロ「個」とマクロ「全体」がその理想する到達点は実は存在していない。
個人が思う理想と、国家が目標とするものはともに形なきものであり、それは「ゆらぎ」でしかなく、しかもミクロとマクロは互いに相反する命題を抱えていく。

日本は現在未曾有の高齢化社会だが、この現状の基本的な原因は「経済」にあって、しかもこの経済が豊かすぎる状態が、個人の理想をある程度実現可能にした時期が有った事に端を発している。
生物は劣悪な環境、即ち「死」が身近にある状態ではより多くの生殖をもたらし、豊かな環境では生殖能力が低下していくが、これは個人の中にも存在するミクロとマクロの内、ミクロが増長するためである。

もともと生物に措ける「生殖」はそれが基本命題だけに、あらゆる快楽や感情などが付加され、その事が大きな喜びである反面、己の存亡をかけた命題となっている。
即ち「個」に措けるマクロとは「生殖の肯定」であり、ミクロが「快楽」や「欲求」を満たす部分となっていて、これらは本来相反したものだが、それがひとつになっていて、しかもこうした基本的な生物の快楽は他の快楽に対して影響を受けやすい。

また「個人」と「国家」の関係に措いても、どこかで人類はそぞれを統一した価値観のように考えてしまうが、これもそもそも相反するものを、現実を無視して統一した観念としようとすることから、ミクロとマクロが妥協したような不自然な社会が出来上がってしまい、そうした社会の形が現在の日本や世界の姿である。

為に軽薄な「正義」「平等」、「優しさ」などが横行し、そこから外れる者は異端や悪とされるが、現代日本の40歳代以下労働者意識では、2010年の段階でその50%以上が何等かの形で「天変地異」を望んでいた事実は何を意味しているか、そこには悲痛な若者たちの姿が垣間見えている。
つまりミクロとマクロが妥協した社会を変えられない、変える道が閉ざされた者たちの声が聞こえるのである。

例えば日本の年金制度を取って見てもそうだが、この秩序が大切なのは年金を貰っている高齢者であり、将来いずれかの時点では破綻するであろう年金制度は50歳代以下の人口にしてみれば、今すぐにでも無くなってくれた方がどれだけ有難いか知れない現実が有るが、この高齢者もマクロでこうした思いになったとしても、個々の個人にしてみれば「親」であり、彼らの生活が安定している事はやはり望むべきことだと言う矛盾を抱えている。

同じように高齢者にしてみれば、社会的に高齢者福祉を削ろうとするような事を考える若者は随分身勝手なもののように思えるが、その実、自身の息子や娘、孫達がこうした若者世代なのであり、国家として考えるなら高齢者はできるだけ早く死んでくれた方が良いが、個々のレベルでは早く親が死んで欲しいと思う者は存在しようもなく、こうしたなかでミクロとマクロを一緒に考えた中道を行くなら、そこには大きな矛盾をひた隠した「善良」さによって更に大きな矛盾を生じせしめることになる。

基本的に同じ「変革」と言っても高齢者が望む変革と若者が望む変革は違っていて、高齢者の望む変革は自身が最も調子の良かった時期を基本にした変革であり、そうした経験のない若者が望む変革とは、実は高齢者が望む変革の破壊かも知れず、しかも日本のように圧倒的な人口比率を持つ高齢者の意見の影に、若者の声はかき消されるか封殺されて行き、このような閉塞感の延長線上に天災と言うものが在る。

即ち、人間がどうしても判断できないことは「天災」が為すことになる。
老いた者、弱いものが滅び、強いもの、若い者だけが生き残れる生物の本質の前に、これらをミクロとマクロの矛盾の中でさまよう人間に対し、例え大きな悲しみを伴おうとも、どうにも出来ない事に決着を付ける意味を持っている。

それゆえ「天災」に遭遇した者へのことを思えば、我々はただひれ伏すのみであり、その悲しみ、苦しみは到底他人では理解できず、他もまた分かったような事を思ってはならない。
だがこれだけは忘れてはならない。
ミクロ、つまりは個人の思いが何かを得ようとして媚を売ったり、マクロ、いわゆる全体の思いがミクロ(個人)を救うなどと言う事は思ってはならない。

東北を襲った巨大地震、その後の紀伊半島の豪雨災害、これらを鑑みるにどこかでは人心の乱れと災害が、何らかの因果関係を持っているようにも見えるし、思える。
世はまさに原子力発電問題をまるで「人災」のように考え、そして個人や企業、政府を責め立てるが、こうした一連の問題の基本的な原因は「天災」にあり、如何なる建築物も地球と言う物理的な空間での安全は一切保証されていないし、保障できる人間などだだの1人たりとも存在し得ない。
また、これまで人類の手によって為された事業も、その一切が意味の無いものでしかない。

ミクロがその視点でマクロを語り、マクロがその視点でミクロをなんとかしようと考えるのは傲慢な事であり、互いに自身の身分をわきまえた上で語らなければ、そこに発生するものは「混乱」と言うものになる。
天災で死んでいった者達の死は今を、そして未来を生きる者たちに取って大きな意味を持っている。
決してそれは犬死にではない。

ゆえ、天災で死んで行った者たちの事を思うなら、生き残った者はその死を犬死にするような有り様では申し訳が無い。
日本は地震や気象の災害の中で人々が生きぬいて来た。
そこでは姿なきもの、形なきものを理解していなくても認めてきたが、今日日本の有り様を鑑みるに、全てに措いて結果や責任を求める労力の背後に、何か大切な事がおざなりにされているよう思える。

※ 本文は2011年9月19日、yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。