2・「暴走する性意識」 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2019/05/29 05:09

女が自身を女として意識する機会は、相対する男の性の対象年齢によって抑止効果が増減し、すなわち自分の好みの男性の前では一番高い抑止効果が有るが、男女ともこうした抑止効果は一人の相対する性だけで継続してはいない。

それゆえ既婚男女でも、夫や妻以外の実態する性に対して現実的年齢や環境を鑑み、または自身が理想とする漠然とした性的対象者の前では、例えそこに実際的な性交渉の余地が無くても、自身を男や女と強く意識することから抑止効果を発揮するが、実態する性が眼前に無い場合は常に暴走となり、そこでは性の意識が男でも女でもない、ただ拡大する生物本能のみの世界が広がっていくのである。

そしてこの傾向は男よりも女の方が激しいのは、男より女の方がより生物的であると言うことなのかも知れないが、同じ面では男の性意識の方がナイーブであり、男の性意識は実態する性より社会的な、或いは観念的な性意識であり、このことから男の性意識は女を想定できる物質にまで及ぶのであり、為に下着ドロボーなどが出現したり、電車内での盗撮事件が起こってくる。

が、こうした事を異常な性的欲求とする現代心理学は、非常に形骸的なものでしかなく、本質から遠く離れた部分での考え方と言える。
つまりは女が好き、男が好きはある種生物学的な基本であり、なおかつ女の性意識は実態する性に左右され、男の性意識は観念であると言う事を鑑みるなら、女に興味のある男は当たり前のことであり、問題はどうしてこうした意識をコントロールさせるかと言う点で、これはモラル形成が為されているか否かの、社会の在り様に深くかかわってくる。

それゆえ下着ドロボーも盗撮も、幼児性愛も、本質的には精神の異常では無く、男の性意識が観念であるなら、基本的には女の形をしている、若しくは女らしきものでも全て男にとっては女になってしまう事を認知し、こうした男を形成するものは母親と言う女である事を自覚して置かねばならず、この根底を流れるものは第一時的欲求の食欲に近い本能に負けつつある女の性意識、いわゆる暴走する女の性意識が招く、宗教的統制のない男女区分化社会に求めなければならない部分が少なく無い。

確かに異性と言うのは面倒で、眼前に居なければこれほど楽なことはないが、やがてその存在が空気のように存在して当然になり、それを失う本当の悲しみや、人が生きることの何たるか、死ぬことの何たるかを知るには、まずは男女が出会うこと意外に方法がない。
ゆえ、こうした事を通らずに過ごす者の多い社会は、どこかで本質を失った軽微な社会や弱い社会を生み、男女ともその性意識が暴走し、性犯罪の多い社会、モラルを失った社会が顔を覗かせることになる。

私はこれまでの記事のなかでも男女の性意識の乱れは、しいては国家の乱れとなり、やがては世界の秩序を壊すものだと書いてきた。
この眼前に世界秩序の崩壊が現実性を持って迫ってくる現在、それを正すものは為政者でも無ければヒーローでもない、私たち一人一人が姿勢を正し、男が男であり、女が女で有ろうと努力し、責任を全うすることこそ失って来たモラルの最構築となるのであり、遠いようで一番近い世界秩序の創造への道なのではないか、そのような事を思うのである。

生物は基本的な本能に忠実でありながら、第一次欲求に代表されるような「欲望」には強固な意思を持たなければならないが、適度な抑止効果が自動的に働く自然界の外にある人類社会は、これを自分達で築かなければならない。
しかしどうも有史以来、人類はこのことに上手く行っていないような気がする・・・。