「権力の散逸と儀礼」・1 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2019/06/01 05:07

権力と言うものの最小単位は「自己」に対する「他」を認識できる複数以上の存在から始まる。
つまり人間なら2人以上、人間と動物、人間と植物、人間と物質、そして人間が想像可能な人間以外の存在との間で成立し、その最も原始的かつ基本的な形が「暴力」であり、権力の始まりとその権力の終焉には同様の形を示すが、最も初期の暴力は秩序に向かい、終焉の暴力は果てしない混乱へと向かう。

また一般的に現在の世界秩序は「言論」や「多数決」、「議会制民主主義」をして「暴力」とは何か異種の知的手段のように考えているかも知れないが、その実紛争の解決に措ける最終手段として「軍隊」やそれに準ずる存在が在る以上、「正義」と言う言葉が装飾されても前者と「暴力」は等しく、国内法、国際法、国際慣習にてもそこに「制裁」や「罰則」が存在すれば、これも「暴力」に等しい。

我々は「暴力」と言う言葉に何か特別な「悪」の概念を持っているかも知れないが、基本的にそれは人を動かす力で在り、この点で言えばそれが相対する存在の任意によって為されるか否かでしかなく、「力」と考えるなら「言論」「多数決」「議会性民主主義」「暴力」は本来区別して概念することは出来ない。

「暴力」が及ぼす影響はそれを認めるか否かによって決定する。
従って「暴力」を恐る者によって「暴力」は力となり、より大きな暴力、より強い暴力が小さな暴力、暴力を否定する者を支配するが、最終的に相対する者が自身の生命をしてこれに抵抗する場合、暴力はその相対者に対して「権力」とはならない。

ゆえ、権力は力なき者、貧しい者、誇りを失った者に対して影響を及ぼし、「暴力」を担保しているものは常に相対する者の「恐怖心」であり、人間を動かす最も基本的かつ大きな力はこの「恐怖心」ともう一つ、「恐怖心」の対極にある「命を棄てる覚悟」となり、「恐怖心」で動く者は被権威者、「命を棄てる覚悟」で動く者は権威者となっていく傾向にあり、被恐怖が暴走を始めた場合、その「場」に恐怖の連鎖が巻き起こり、この世で最も残虐な混沌へと落ちていく。

常に暴力を行使している「権力」はそれに慣れているだけに、一定の状況になれば限界を持つが、「恐怖心」から始まる存在には際限がない。
この為いつの時代でも民衆が革命を起こした場合、その有り様はそれまでの「権力」より遥かに残虐な状況をもたらし、その後こうした際限のない暴力の開放がもたらした「自由」は、その国家や民衆を更に深い暴力による無秩序、混沌へと貶めていくことになる。

現代民主主義の起点ともなる「フランス革命」(1789年)では始めて「市民階級」による革命が成立したが、国王のルイ16世はコンコルド広場にてギロチンによって首を落とされ、王妃マリーアントワネットは牛馬糞の搬送車によって市内を引き回された上に処刑となった。

ここでは「自由」や「平等」の概念よりも民衆の個人的な恨みの蓄積が国王や王妃のこうした処刑と言う形で現れたが、この事がその後恐怖の連鎖を生じせしめ、フランス国内では恐怖支配、恐怖政治が発生し、結局1899年、ナポレオン・ボナパルトの出現となっていく。

                                                  「権力の散逸と儀礼」・2に続く

本文は2011年10月23日、yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。