2019/06/01 05:11

恐怖の連鎖を食い止める方法はひとつしかない。
それは「礼節」と言うものであり、分かりやすく言うなら「大義」でも良い。
日本に措ける国法編纂の祖、明治の「江藤新平」は自身が編纂に関与した「法」によって裁かれ、そこで処刑されたが、彼が持つ「法」の概念には「政治犯に死刑があってはならない」と言う思想が漂っている。

政治はいつの世も「調整能力」であり、ここでは一切の制約、いわゆる道徳や常識、人間性を排した状況で無ければ正確な判断が出来ない状況が訪れる。
人を殺す事は悪いことだが、では10人の命と100万人の命が天秤にかけられたら、或いはその国家存亡の危機に際して一般的な道徳観念や平和、正義がいつも通用するとは限らない。

何百万人殺そうが、そのイデオロギーでしか国家や体制を保つ術のなかった旧ソビエト、中国の指導者たち、近いところで言うなら第二天安門事件の指導者「鄧 小平はどうだ。
抵抗する学生を戦車でひき殺しても国家を維持するためと有ればそれを遂行し、現在の中国を見るなら天安門事件でとった鄧 小平の判断を誤りだったとする者は少ないだろう。

しかしその当時に措いて彼が失脚し、民主化運動指導者たちによって処刑されていたなら、今日の中国は存在し続けることすら難しかったに違いない。
また同じように思想や言論によって処刑されることが有れば、思想や言論は闇に潜ってしまい、もしかしたら人類の新たなる道標となるべく財産を失い、為に人類全てが困窮する可能性が出てくる。

それゆえその時の「政治犯」に極刑があってはならないのであり、国際社会はこのことを声を大にして叫ばなければならないのだが、こうした事を最も厳守しなければならないアメリカが、イラクに対して取った行動はまったく偉大なる大義を冒涜したものであり、為に現在に至っては一般大衆が「感覚」としてすらこうした意識をうしないかけている。

自身が死者に鞭打つような事をすれば、自分が死んだときも同じ事が起こる事を人は恐れる。
だからこそ力なき者が暴走して起こした恐怖の連鎖は、どこまで行っても恐怖でしかないのであり、これを断ち切る術は独裁者であっても、暴力支配の為政者であっても裁判によって判断されなければならず、しかも極刑があってはならないのであり、これはしいては力なき者の集合、民衆が権力を持つ場合、その自身の恐怖心から唯一開放される道なのである。

あらゆる屈辱の言葉で追い立てられ、そして「アッラーに栄光あれ」と言って処刑された、あの余りにも無残なサダム・フセインの最後をもたらしたアメリカの有り様に比して、少なくとも今回のカッザフィー殺害に関しては、前為政者に対する冒涜の度合いが僅かに薄く感じられ、また死者に対する冒涜が行われていない事に、私は少なくともアメリカよりはイスラム社会に、リビア国民により多くの敬意を払いたい気持ちがある。

またどこかの国の、福助人形面した総理の原子力政策に関する内股膏薬演説では国連での聴衆者はまばらだったが、数年前同じ国連でカッザフィーが語った演説に私は感動した。

もはや20年以上も前になるが、トリポリの街はゴミ一つ落ちてはいないような綺麗な街だった。
これから先リビア国民の苦悩は計り知れないが、そのリビア国民の未来のために、私はあの美しい街を築いた独裁者カッザフィーと言う為政者に対し敬意をはらい、尚、追悼の意を表する。


本文は2011年10月23日、yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。