2019/06/11 05:36



「ああ、あの時と全く同じだわ、何も変わっていない、まるであの日に戻ったよう・・・」
「トビアセンさん、少しヨットを留めて下さらないかしら」
リディア・キンバリー婦人はトビアセン船長にそう言うと、まるで穏やかな海に微かな風を受け、髪をたなびかせながらヨットの先に立っていた。

そのキンバリー婦人の横顔に、僅かに頬を伝う涙を見たトビアセン船長は、ヨットの帆を降ろすと婦人に気を遣ったのか「いいですとも、私はキャビンにいますから、何か有ったら呼んでください」と言ってキャビンに入って行った。


1947年3月16日、ブライアン・キンバリーと妻のリディアは、2人の最初の結婚記念日であるこの日ヨットを借り、2人だけのクルーズに出かけたが、その日もやはりこうした暖かな良い天気で、ヨットはまるでゆっくり海を滑るように進み、バハマ沖へ差しかかった時の事だった。

少しヨットを留めて2人だけの静かな時間を作ろうと思った夫のブライアンは、ヨットの帆を降ろそうとキャビンを出たが、その時突然強い横風が吹き、ロープを踏んでしまったブライアンはバランスを崩して海に転落してしまった。

しかしその事に気づかないリディアは、暫くして余りにも夫の帰りが遅いのでキャビンを出てブライアンの姿を探すが、ブライアンは帆を降ろす前に転落していたことから、ヨットは既にブライアンが転落した場所からかなり離れたところまで進んでしまっていた。
「ブライアン、ブライアン」
リディアはヨットの上からいつまでも夫の名を呼び続けていた。

そしてリディアのそうした様子を不審に思ったのか、近くを通りかかった別のヨットの家族はこのことを港に連絡し、その日の内にブライアンの捜索が開始されたが、残念な事にブライアンは水死体で発見されたのだった。

悲嘆にくれたリディアはその後、ブライアンとの間に子供もいなかったことから、故郷のケンタッキー州の生家に戻るが、まだ若くて綺麗なリディアは地元でも人気が有り、再婚話やデートの誘いはとても多かった。
だがリディアはそうした話や誘いには一切応じず、毎年3月16日の結婚記念日にはブライアンが好きだった葉巻やブランデーを供え、ひっそりと一人で祝い、神に祈りを棒げ続ける日々を送っていた。

それから43年、63歳になっていたリディアは、前年たった一人残された身内である母親が亡くなり、もう自分以外誰もいなくなった家を見るに付け、どこかでは自分もこれから老いて死んでいくだけなのかと考えるようになり、せめてもう一度夫ブライアンと楽しい時間を過ごしていた場所、バハマ沖へ行って見たいと思うようになっていた。

かくて1990年3月16日、リディアはマイアミのドッグでヨットをチャーターし、夫と最後の別れになったバハマ沖を43年ぶりにクルーズしていたのだった。
「ああ、ブライアン、帰って来たわよ・・・」
リディアは腰をかがめると、海に向かって祈りを捧げた。

どこまでも穏やかな海、雲ひとつない天気、バハマ沖に浮かんだヨットは平和そのものだった。
キャビンで手持ち無沙汰の「ヴルース・トビアセン」船長は、3本目のタバコに火をつけようとしていた、その時だった。
突然外から「キャー・・・」とも「アァー」ともつかぬキンバリー婦人の悲鳴が聞こえてきた。

「何事ならん」、慌ててキャビンを飛び出すトビアセン船長、しかしその眼前に繰り広げられる光景は我が目を疑うしかないものだった。

なんとキンバリー婦人の前に一人の男が立っていて、その姿はまるで50年ほども以前の映画に出てくるような、古いスーツ姿にグレーのハット、と言う出で立ちだったのである。
しかもその男はキンバリー婦人に何か話をしていて、その話の内容まではっきりと聞こえてくる。

このヨットには自分とキンバリー婦人しか乗船してないはず、海から上がってくるのは不可能だ、だとしたら幽霊・・・。
トビアセン船長は思わず「ワアー」と声をあげそうになるが、キンバリー婦人の様子を見るとそんなに慌てた様子が無く、これで少し落ち着いた船長は暫くこの2人の会話を聞いていた。

「リディア、怖がらないでおくれ、私だよブライアンだよ、随分一人のままにしてしまったね」
「ああ、ブライアン、ブライアンに間違いないわ、私のブライアン・・・」
「リディア、私は君を連れにきたんだよ」
「君がいつまで経っても悲しんでいるのは辛かった」
「やはり僕たちは一緒にいるべきだったんだ、分かるかいリディア・・・」

「ブライアン、ああ、ブライアン、私を連れて行って、もう一人ぼっちは嫌よ・・・」
その古めかしい装束の男にキンバリー婦人は抱きつき、やがて2人はまるで一つになろうと必死でもがくように更に強く抱き合うと、キスを交わしていた。

ここに至って状況はさっぱり見当がつかないものの、事の異常さに気がついたトビアセン船長は、慌ててキャビンからカメラを持ってきてこの場面を写真に撮影したが、その直後、正体不明の男とキンバリー婦人は姿が少しずつ透明になっていき、やがて空気に溶け込むようにして消えてしまったのである。

暫く呆然としたトビアセン船長だったが、ガラーンとしたヨットに正気を取り戻し、一路バハマのフリーポートまで帰り着くやいなや、バハマ連邦当局に出向き、事の次第を報告する。

しかし連邦当局の係官はあまりに現実離れしたトビアセン船長の話に、まずトビアセン船長がキンバリー婦人を殺害した可能性を疑い、こうしてトビアセン船長は拘束され、3日間に渡ってバハマ沖の海域でキンバリー婦人の捜索が行われた。

しかしどれだけ探してもキンバリー婦人の姿も遺体も見つからず、トビアセン船長の身体検査からも、ヨットのキャビンからも、キンバリー婦人を殺して奪う程の金も見つからなかった。
加えてトビアセン船長はキンバリー婦人よりは遥かに若く、また妻子もあったことから暴行の可能性も薄く、結局3日間に渡って厳しい尋問を受けたトビアセン船長は4日目に釈放され、その決め手は彼が撮影した写真1枚によるものだった。

その写真には確かにハットを被った古めかしい衣装の男性と、キンバリー婦人が両手を広げ、今まさに抱き合わんとしている光景が写し出されていたのである。