「カレーライス」・1 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2019/06/15 05:09

明治政府は徳川幕府の鎖国政策により近代化の波にすっかり乗り遅れてしまった日本へ、積極的に西洋文明を取り入れようとし、ここに「文明開花」と呼ばれる庶民意識が発生してきたが、その華やかさの裏側で、当時の日本人の戸惑いもまた大変なものだった。

例えば新しく出来た洋食料理店に入って来る日本人は、その多くがスープを飲もうとして胸の中へこぼしていた事から、日本人は胸からスープを飲んでいると揶揄した記録がイギリスに残っていたり、フォークで肉を食べようとして唇を突き刺し、血だらけの口で肉を食べている様子に、さながら現代で言うところのホラー映画を観るか如く、驚愕したと言う話が記録に残っている。

そして日本に措けるカレーライスに関する最も古い記録は、1863年(文久3年)の事、当時の江戸幕府が派遣した「西洋使節団」一行が、同じ船に上海から乗船してきたインド人に付いて、「何か不可思議な物を食している」と記している、この記録がおそらく日本最古のカレーライスの記録だろうと思われ、それによると、くだんのインド人が食べていたものは「芋のドロドロしたようなもの」と表現されている。

更にカレーライスの調理方法に関する記録の一番昔のものは、1872年(明治5年)、「仮名垣・魯文」(かながき・ろぶん)が著した「西洋料理通」と言う著書に出てくるもので、この中ではイギリス料理として粉末カレーを用いたカレーライスの調理方法が記されているが、ちなみにこの時代の日本では「カリーライス」と発音するのがインテリジェンスとされたようで、現代のように「ライスカレー」の表現が存在していない。

またこうして日本に入ってきたカレーライスだが、当初は大変高価なものであり、貴族社会、上流社会でしか消費されることはなく、その調理方法も貴族などが自宅に調理人を呼び、その調理人が貴族の邸宅で調理する形態が多かったが、1908年(明治41年)に出版された「夏目漱石」の「三四郎」の中では、出身地熊本から東京に出てきた「三四郎」(富田常雄の姿三四郎と混同しないように)が、本郷の洋食屋でカレーライスを食べたと書かれている事から、少なくとも1908年には当初貴族社会だけの食べ物だったカレーライスが、この時点では一般大衆化していた事がうかがえる。

ちなみに1907年(明治40年)の公務員給与は50円、この時カレーライスは7銭、牛肉100gも7銭、アンパンが1個1銭だから、現代感覚で言うなら、この当時のカレーライスは一食が5040円と言うことになる。
庶民に普及したとは言え、今で言うなら最高級松坂牛を使ったカレーライスの価格と言うところだろうか。

1923年(大正12年)、この年発生した「関東大震災」は、ある意味それまで古くなっても仕方なく存在し続けていたものを一挙に払拭したが、このことがそれまでの日本の食堂の有り方に変化を与え、旧来だと洋食と和食の食堂が分離した専門性を持っていたものが、統合された形態を持ってくるようになる。
即ち洋食と和食を同時に提供できる食堂が発生してくるのであり、1929年大阪梅田に阪急百貨店がオープンしたおり、この百貨店の食堂のメニューに初めてカレーライスの名前が見えている。

これは1933年の阪急百貨店の食堂の価格表だが、コーヒーが付いて一食20銭、現代の価格で言うと4000円ほどにもなろうか、それでも1日3000食前後が販売されていたのである。
この同じ時期、日本社会は会社設立の機運が空前のブームを迎えた事から、都市部では「サラリーマン」が誕生した時期でもあり、このサラリーマンと言う新しい職業形態がまた、カレーライスの消費を支えて行った。

                          「カレーライス」・2に続く