2019/06/27 06:54

「もし神が女性の乳房を創造していなかったら、私は絵を描くようになっていたかどうかは分からない」
これは「 Pierre Auguste Renoir 」(ピエール・オーギュスト・ルノアール・1841年ー1919年)の言葉だが、俗に言う印象派の画家の中でギリシャ神話に端を発する、「ビーナス」の「美」に相対する価値観の女性美を表現しようとした画家は3人、セザンヌとゴーギャン、そしてこのルノアールである。

だが芸術の世界で有ると無しによらず、基本的に男女の性差を決定的にしているのは、「女」と言う性の構造的特徴であるその性器と乳房だが、この2つの特徴の中でも、例えば衣服の上からも「男」がそれを視覚的差異と確認できる乳房の存在は、「女」そのもので有ると言っても過言ではなく、この意味に置いて印象派の3人の画家たちは、当代流行の貴婦人達の肖像画に見られる色白で腰の線の細い女性美を否定し、ある意味ミロのビーナス以前の女性美に価値観を戻したと言えるのかも知れない。

従って彼等が絵画で実践した女性美の創造は、古代ギリシャ、ローマの女性美の価値観にまで遡って女性美の価値観を否定している事になるが、こうした傾向が一連の流れで有ることもまた、ルノアールの冒頭の言葉がそれを端的に言い表している。

つまりは「女」の象徴である乳房を表現することで「女」を描く。
この事は古代から続く流れの中に有り、古くはアルテミス像に見られるように、多くの乳房を持つ神の姿から、或いは古代文明の造形でもポピュラーな、デフォルメされた乳房の表現の仕方からも垣間見る事ができるが、大きな区分で言えば全体の造形、若しくは表現の中で乳房がどのように描かれるかによって、その時代の美意識を感じることができるとも言える。

また芸術や表現は必ず「中心点」を持っていて、その対比によって表現が為されていくが、そのことは通常表現者の研究によって意識されているケースは少なく、むしろ表現者の「感覚」によって自然発生的に出現してくる。
それゆえ歴史研究や時代考証を為す者は、その時代を考える上で、時代の中で最もポピュラーなものは描かれにくいことを考証する必要がある。

芸術や表現は常に「劣勢価値観」のものである。
数が少ない、初めてである、それまでに無い表現など、いわゆるその出発点は、大きくなってしまっているものや、ポピュラーなものにその出自があるのではなく、むしろその反対側に有ると言って良い。
芸術、美術の出自は簡単に言えば「特殊性」であり、その意味に措いては必ず大きな存在や現在に対する対比が有り、その対比には必ず中心点が存在していて、その中心点の彼方に今の表現ある。

ルノアールを例に取れば、当時アカデミック化した「サロン」、その人間が作り出した議論的文化の洗練された有り様に疑問を抱き、「自然」や「アルカディア時代」の、その粗野とすら言えるかも知れない生命の力強さにこそ女性美、もっと言えば「人間美」を求めたのであり、この場合の対比中心点はギリシャ時代の美、並びにそれが復興された中世暗黒時代のルネサンス期の「美」を中心点として対比構造を描いていて、この傾向はパブロ・ピカソなども同様の傾向を持っている。

そしてこの対比構造のもう少し先か、若しくは少し手前には「狂気」が有り、「狂気」の対比構造は中心点と自身の位置が限りなく近いか、同一の場合を指し、こうしたものの周辺に軽度の「狂気」、つまりは軽度の精神障害や社会適合性の欠落因子が存在するが、この中で創造的作業を為す事が出来るのは「狂気」と、大きなサイクルを持つ対比構造が小さい対比構造へと向かう事のできる者だけである。

つまり周辺に在る軽度の精神障害や社会適合性の欠落因子は、創造的作業を行えず、逆に元々存在する芸術や美術の「劣勢」に対して更なる「劣化」や「失望」を加えるものであり、現代社会の多くの芸術家や美術家はこうした範囲の存在でしかない。

                         「ビーナスの否定」・2に続く