2019/06/27 06:55

ルノアールはその初期、「少女」や「女」を通して、2000年を中心点とした4000年規模の対比美的価値観を描いているが、やがて当代印象派画家達がこぞって「光」に溺れる中で、感動や精神性、何よりも絵を描く事の中で「光」の持つ重要性は最も大きな要因で有ることに間違いないが、それだけでは無いことを表現し始めるようになる。

イタリアに旅行したルノアールは、ポンペイの壁画やラファエロの絵画に感動し、一時期古典主義絵画を描くようになるが、これなどは当代の印象派に対する明確な対比価値観と言うべきもので、しかもその当初のスケールが現実的時間軸に接近してきている事を示している。

いわんや芸術の本質は「創造」で有り「破壊」であり、この作業は限りない狂気と隣接したところに有って、「狂気」がもたらすものが「破壊」で有るなら、芸術や美術は常に「狂気」と言うものかも知れない。

従って破壊を行えない者は創造的作業を成し得ず、その「破壊」の範囲は全ての方向へと、また自身にまで及ばなければただの「壁紙」を作っているにしか過ぎず、その創造と思える作業も大観するなら、人類の歴史上、幾度となく循環し勃発してきたものの再興の範囲を出ないものなのである。

その上で現代社会の美術、芸術、その他あらゆる表現的美的感覚を鑑みるなら、ここに「美」に対する対比価値観が初めから矮小で有ることに気づかされる。
これはどう言うことかと言えば、「ニセの狂気」で有ると言う事、若しくは「亜正常」を「才能」と誤認したか、誤認させられて芸術的表現をしている者が多いと言うことになる。

一般的に個人主義や自由主義が蔓延してくると本来は「劣化」や「欠落」ですら「才能」と考える者が増え、ただ親の教育が傲慢だった為に社会的適合性を失なっている子供までも、いやそうした子供ゆえに、そこに芸術的才能を希望的観測として持つ親が増加し、そうした事を言われ続ける事で自身も、実は社会に対する「欠落」をして才能と信じ込んでしまう人間となっていき、元々権威でしか芸術を理解できない一般大衆の美的感覚は、経済的価値観からこれらの蔓延を許容し、為にこうした劣化芸術の増加による社会的な美的感覚の「劣化」が始まっている。

「破壊」と「劣化」は違うものであり、「劣化」と「劣勢」も違うものにも拘らず、これらが同義として扱われる社会は芸術的価値観を破壊するのではなく、美的感覚の存在自体を溶融し、それによって現代社会の価値観は完膚なきまで溶融、腐食し切ってしまっている。

その結果、現代社会の芸術、美術は全て「亜」なのであり、こうした中で価値観に混乱した民衆は、取りあえず混乱の外に在る過去の芸術や美術に価値観を見出す以外になく、これをして骨董ブームが発生してくるが、これは明確に過去より今の時代が力を失っている事を示していて、同じことは例えば街並みの設計に付いても「文化偏重」の傾向を生じせしめるが、現在文化と呼ばれているものも、それが作られた時は「当時の最先端」で有った事を誰も考えない。

南フランスのカーニュ、「ヴィラ・コレット」に晩年のルノアールを訪ねた「梅原龍三郎」画伯、彼はここで車椅子に乗りながら、不自由そうな手で絵を描き続けているルノアールからこんな話を聞かせてもらっている。

「絵を為すものは手では無く目だ、自然を良く見るといい・・・」