2019/06/30 18:55

輸入車に乗っている人なら、一度や二度こうした経験が有ると思うが、例えばオイル交換をしようと市中汎用サービス店、もしくはガソリンスタンドへ入っても、「すみません、ここではできません」と断られてしまう時がある。

特にフランス車はこうした事態が決定的で、そもそもメーカー指定の特定工具が無いとオイル量すら確認する事が出来ず、その特定の工具はディーラー、販売代理店指定工場から持ち出し禁止になっている。
つまり、僅かオイル交換ですらディーラーの支配下に置く方式になっているのだが、こうした方向性は近年の日本車でも同じ傾向が有り、自動車修理市場は急激なメーカー独占市場へと向かいつつある。

そしてこうした傾向を決定的にしてきているのは「ハイブリッド車」や「電気自動車」であり、余り公にしてはいけないのかも知れないが、自動車修理技能者に対する講習などでは、ここ数年ハイブリッド車が事故を起こした場合、「決して触るな、近付くな」と言う事を言っていて、このことは自動車購入者へも注意が喚起されて然るべきだが、自動車購入者への注意喚起は自動車修理技能者に対するそれより、遥かに小さな文言でしか語られていない。

ハイブリッド車は大容量のバッテリーを搭載していて、事故を起こした場合、その事故が小さなものでも、場合によっては高い電圧が車の中を流れる危険性が大きく、また液漏れによる有害ガス発生の可能性、液体飛沫が目に入った場合失明の可能性も高いことから、メーカー指定の技能者以外が触れない状態に陥ってしまう。

更には例えばトヨタの高級乗用車などに使用されている塗料は、1kgが50000円と言うものまであり、大手塗料メーカーからは特定の自動車メーカー以外のところに、その塗料を出荷しない措置が取られていることから、板金塗装ですらディーラーが握っている場合もある。

このことが何を意味しているかと言うと、市中の零細小規模修理工場が、ここ10年ほどで全て排除されて行くと言う事であり、そうした傾向は既に始まっていて、地方ほどそれが加速的に進んで行き、ディーラーの利益優先主義は地方や過疎地域から撤退傾向に有る事から、地方ほど自動車修理サービスが失われ、おまけに修理工場も潰れて行く事態が発生してくる。

またこうした事はヒソヒソとしか語られていように思うが、現状のハイブリッド車が雪道走行で脱輪した場合、確実に自力脱出が不可能なことは明白で、バックギヤを入れても出力が足りず、やがてバッテリーが電圧を失い、ディーラーへ連絡して牽引して貰わなければならないが、こうした事を知ってハイブリッド車を買っているユーザーはどれほどいるだろうか。

つまり現状で言えばハイブリッド車、電気自動車は「未完成」な訳で、ガソリン車よりも遥かに危険な乗り物であることが説明されず、ひたすら「エコ」が強調される政府の見切り発車が、ユーザーの安全を蔑ろにし、利益誘導主義を後押ししている現実が存在している。
「エコ」と言う根拠の無いものが人間の生命の安全よりも重視されている。

更にもう一言、一昨年まで日本では、電気は安全で絶対供給が止まらないものと定義され、そこから「オール電化」なる商品がどんどん発売されたが、今日の現実はどうか、原子力発電と言うリスクの高い方法で生産され続けてきた電気、そう言うリスクが隠蔽され、何か非常事態が発生すると一挙に不安定になっていく在り様を鑑みるなら、ここに単一のエネルギーによって維持される社会のリスクの高さと言うものも考慮されなければならないが、そう言う話が全く出て来ないこの国の脳天気さは如何なものか・・。

資本主義の命題である「拡大」には2種の道がある。
一つは単一のものが巨大化する「拡大」、そしてもう一つは「消滅」に向かう「拡大」だが、国家や社会にとって大きなリスクとなるのは「単一のものが巨大化する拡大」で有り、「消滅」に向かう拡大とは、一つの製品なり商品のバリエーションが多様化し、そして本来の姿を失い「消滅」に向かうが、この事は「発展」や「創造」と言う側面を持っている分だけ、単一巨大化拡大」よりはリスク分散が為される。

そしてこれは太平洋戦争後の日本経済を支える原動力となった部分だが、太平洋戦争中、日本各地から軍需工場に集められた多様な技術者達、彼らは互いの技術の話をして、「平和になったらあんなものを作りたい、こんなものを作りたい」と語り合った。
戦争が終わって自由に物が作れるようになった時、彼らは交流を持った日本各地の技術者達の話を思い出し、自分の持つ技術にそれを加えて、より完成度の高い物を作っていった。

伝統もそうだが、「技術」の最大の敵はその「保全」だ。
一つの技術にすがり、そしてそれを守ろうとする有り様は技術の衰退以外の何ものでもなく、そうした精神が発展を拒んでいるのである。

今、世界的に社会は「単一巨大化」資本主義と、それを擁護する政策が主流となっているが、このことが持つ大きなリスクと複雑化する情報の中で、最も原則になる部分が失われ、一見綺麗に見える枝端が重要視される現実は、いつの日か人類レベルの悲劇を招く危険性が高い。

本当の危機は音にも聞こえず、誰も気付かないところで静かに始まっているものだ・・・・。

※ 本文は2012年4月14日、yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。