「限定と拡大」 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2019/07/02 05:31

例えば神に対して畏敬の心を表すなら、その事に形は無い。
しかし人間社会は視覚的に、聴覚的にそれが表された信号が無いと、互いに神が畏敬された事を認識できない。
神と言う形無きものと、心と言う形無きものの関係は、本来形を持たない帰結のはずだが、人間社会では「他」によって「自己」が為されることから、この形無きものを必ず形にしていく。
これが言語であり、宗教であり、政治であり、社会と言うものだ。

つまり人間社会ではその本質は常に失われるか、初めから消失した状態で営みが為され、およそ形無きものに形を与えようとする作業は大いなるものを限定し、それを狭める事を行なっているに過ぎない。

簡単に言うならば自分の名前はどうだろうか・・・。
自分の名前は本当に自分の全てを現しているだろうか、それが私たちを正確に表現しているだろうか、またもし他の名前で名付けられたとしたら、それで不都合が生じていただろうか・・・。
自分にとって一番大切な名前、それで有っても自分の社会的な立場を示す、ほんの僅かな「自分の限定」でしかない。

にも拘らず、もし自分の名前が辱められたら人間は怒り、時間軸や空間軸が異なれば、それを命懸けで守らなければならない状況が存在する。
人間はどんな時もその瞬間を生きている。
それゆえ例えば名前のように、自分のほんの限定された一部に過ぎないものでも、その瞬間は「自分の全て」として考えてしまう。
そしてこの事が人間社会に大きな災いをもたらしていく元凶になっている。

満員電車の中で靴を踏まれた時、その事自体は自分が身に付けているものに「他」が接触しただけの事だが、通常こうした事態に人間が考えることは「増殖した事実判断」になり、それで謝りもしなかった場合などは、「俺をなめているのか」、「私を馬鹿にしているの」と言うところまで発展し、攻撃的になって行くが、その時の相手の本意は分からない。

もしかしたら「なめている」のかも知れず、「馬鹿にしている」のかも知れないが、或いは単なる不注意かもしれない。
だがその相手の本意はともかく、現実は単なる「他」の接触であり、それで謝ろうが謝るまいが靴を踏まれた事実は何等変わることは無いのだが、多くの人はここで謝罪と言う心を形にしたものを求める。

面白いもので、人間の思考パターンは冒頭の「神」のようなもの、つまりは「他」に何かを求める時は大きなものを限定し、狭めて考えるが、自分に「他」が接触してくるときは「小さな事実を拡大」し、「形のあるものを形無きもの」にまで拡大して意識してしまうのであり、人間の選択がどんなに複雑になろうとも必ず「二者択一」になっていく基本的な因子は、この辺に存在しているようにも思えるが、その事実が拡大された意識はまた、謝罪と言う形無きものを形にして求めると言う矛盾を行なっている。

人間がどこまで行っても理解し合えない原因はここにあるのかも知れない。
それゆえ、もし意見の対立が発生したとき、既にそこには「本質」が存在していない。
予め「形無きもの」を「形」にして表す事を求めるだけでも、そこに本質の大部分が失われているにも関わず、その上に意見の対立と言う、一種靴を踏まれた状態が発生した場合、「形無きもの」と「形無きものを形にしたもの」が入り乱れ、際限のない混沌へと堕ちていく。