「マルチメディア」・1 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2019/07/03 06:42

1994年7月27日、ヨハネスブルグ郊外に停車していた車の中で一人の男が死んでいた。
その車の中には自分の車の排気システム口からホースによって排気ガスが引き込まれ、男は排気ガスで自殺をはかったものと断定された。
男の名前は「ケビン・カーター」(KevinCarter)と言った。
享年33歳だった。

報道、文学、作曲などの分野で最も優れた作品に贈呈される、アメリカで最も権威の有る賞の一つ「ピューリッツアー賞」
1994年その写真部門を受賞した写真「少女とハゲワシ」が初めてメディアに出現したのは1993年3月26日の事だったが、この写真を掲載した「ニューヨークタイムス」へは、写真掲載直後から絶賛と同じ数の非難の声が寄せられる。

1993年、北アフリカ、スーダンのアヨド村・・・。
激しい飢餓から歩くことすらままならぬ痩せこけた少女、その背後から今まさにこの少女を狙ってハゲワシが襲いかかろうと翼を広げている瞬間だった。
ケビン・カーターは偶然にもこの場面に遭遇し、そしてカメラのシャッターを切ったが、この1年後、彼は自分の車の排気ガスを車内に引き込み自殺する。

1983年以降続く内戦と干ばつにより、スーダン国内は大部分で民衆が飢餓状態に陥っていたが、当時のスーダン政府はこうした実情を省みず、国内の内戦状況が外に漏れることをおそれ、海外の報道関係者の一切を締め出していた。

そんな中、このスーダンの内線状況を世界に伝えようと、スーダン国内に潜入していたケビン・カーター、国連の食料配給所になっていたアヨド村に入った彼は、そこでこの世の地獄を目にすることになる。
たった1日、たった1日でその配給所だけでも10人、20人と言う単位の子供たちが飢餓、或いは伝染病にかかって死んで行き、それが毎日、毎日延々と繰り返される。

もともと20代の頃には躁鬱病を患い、数回の自殺未遂を繰り返した経験が有り、更には薬物依存で精神的にも不安定だったケビンは、このアヨド村の光景に激しいやりきれなさを感じ、絶望から逃れるようにアヨド村を後にしようとしていた。

その直後だった。
ここからは当時現場で一部始終を目撃していたケビンの友人、「ジョアォン・シルバ」氏の証言だが・・・・。
痩せて衰えた少女を抱えていた母親は、食料の配給を手にしようと僅かな時間だが地面に少女を置いた。
力なくその場にうずくまる少女、そして無情にも獲物を狙うハゲワシ、少女の後ろから獲物を鋭いくちばしでつつこうとハゲワシが翼を広げ襲いかかる。

思わずカメラを向けてシャッターを切るケビン、だがどうだろうか、彼はファインダーの中におそらく自分を見ていたのではないだろうか。
「俺は、俺は一体何者なんだ」
「何をしているんだ」
今まさにハゲワシが少女をつつこうとする瞬間、ケビンはシャッターを切った。
その直後、ケビンは少女に駆け寄って、ハゲワシを追い払う。

おそらくこの場面での決定的瞬間は少女がハゲワシにつつかれながら振り向く場面だろう。
しかしケビンはそれを待てなかった、いや待たなかった。
ハゲワシが少女をつつく瞬間では無く、つつこうと背後で翼を広げているカットでシャッターを切っている事がケビンの人間としての有り様を証明している。

ハゲワシを追い払ったケビンの声に少女は振り向き、そしてやがて力なく国連の食料配給所に向かって、母親の後を追うようにヨロヨロと歩き始める。
無言で全ての情景が流れていく中、少女の後ろ姿を見送ったケビンは少女と同じようにヨロヨロとした足取りで近くに有る木の下まで歩いていくと、そこにガクっとしたように腰をおろし、泣き始める。

そしてひとしお泣いたケビン、やがて今度はタバコに火を点けて吸うが、それもまだ吸い切らない内に地面で揉み消すと、また声を上げて泣き続けた。
「ジョアォン・シルバ」氏の手記には「少女とハゲワシ」が撮影された時のケビンの様子がそう記されている。

1993年3月26日、このケビン・カーターの写真を掲載したニューヨークタイムスには賞賛の電話や手紙も届いた。
しかし同じ数だけの非難の連絡も届くのである。
「人の命がかかっているのに、写真を撮影している場合ではないだろう」
「人間の生命よりも自分の地位や名声、それとも金の方が大切なのか」
そう言った強い非難の声が寄せられる。

1994年春、アメリカはこのケビンの写真に「ピューリッツアー賞」を贈り、これを讃えた。
そして同年7月27日、ケビン・カーターは排気ガスを引き込んで自殺したのである。