「マルチメディア」・2 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2019/07/03 06:43

マルチメディアなどと言うと、何か先進的な気がするが、これは報道や情報の劣化であり、制限に繋がるものだ。
ケビン・カーターの「少女とハゲワシ」は報道上に人道をどう反映するかと言った議論を喚起させたが、そもそも「人道」と言うものは「他」によって制限されたり強制されるべきものでは無い。

然るに今日社会を鑑みるに、これが統一基準を持ったかのように扱われ、それを外れるものはまるで人間性を失ったかのように扱われる現実は何だ。
命ギリギリのところで、精神のギリギリのところで一枚の映像を写し、それを茶の間でビール片手に肴をつまんでいる者が批判する。
このことに私などは強い疑問を感じたものだ。

マルチメディアとは複合情報、または双方向の情報を意味しているかも知れないが、マスメディアと言う大きなメディアと、パソコンを見ている個人ユーザーと言う極小単位のメディアは本来同一基準では語れないにも拘らず、これらが混然となった瞬間から、報道は報道の独立を失っている。

ケビン・カーターの「少女とハゲワシ」はある種マルチメディアの概念が抱える問題の先駆だったように思える。
少女がハゲワシにつつかれていようが、そうした写真を撮影しようが、それを制限する者は撮影者自身で有って情報を受ける側では無い。

人が苦しみ悩んで、そして自身や家族に危害が及ぶことすら覚悟でメディアに流したものを、何の苦もなく書き写し、コピーし、そしてあたかも自身の情報のように振る舞い、それを賞賛し、非難する。
やがてこうした極小単位のメディアを恐れるマスメディアはマスメディアでは無く、パソコンの1ユーザーと同じになって行き、報道の責任や誇りを失う。

ここに完全に崩壊し、個人ユーザー化した井戸端会議マスメディアが発生するのであり、この事をマルチメディアと言うのであり、その責任は単にマスメディアだけに負わせる事は出来ない。
個人ユーザーでしかないものを、パソコンの双方向性を良い事に、マスメディアに持ち込んで行った民衆の責任もまた免れることは出来ず、今「倫理」や「人道」が本当に必要なのはマスメディアでは無く、個人ユーザーではないだろうか。

ケビン・カーターの「死」の真相は分からない。
或いは「少女とハゲワシ」の写真を撮影しなくても彼は自殺したかも知れないし、それは時間の問題だったかも知れないが、もしかしたら彼は「少女とハゲワシ」を撮影した事で、自身が持つ迷いを大衆からも指摘され、耐え切れなくなったのかも知れない。
私はケビン・カーターの写真を初めて見たとき、それは少女にとっても命懸けだが、撮影者にとっても命懸けであるかも知れないと思った。

自分が歩くこともなく、汗をかくこともなく、綺麗な部屋でパソコンに向かい、泥だらけになりながら得た人の情報に、いとも簡単に優劣を付け非難する。
報道の劣化はこうしたところから始まるのであり、今般社会で言われるところのマルチメディアなど、単なる「劣化」、「堕落」「傲慢」でしかないような気がする。