「救済策と言う税制」 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2019/07/21 05:19

西暦700年前後の日本、ちょうど律令国家が最も繁栄した時代だが、この時代の所得税である「租」(そ)は田んぼ一反(いったん・991・7平方メートル)に付き稲が2束2把であり、当時の米の収量を一反当たり2俵未満(120kg)とすると、凡そ3%と言う事になる。

現代と比べると随分良心的な税制大系だが、裏を返せばこの税制は見かけ上のもので、為政者にとってはそんなに重要な税では無いと言う事なのかも知れない。
結局律令制度は農業を法的に整備支配する仕組みでもあったのだが、この時代の農民があらゆる時代を通して最も苦しく、為に日本の農業は離農者を沢山輩出する事になり、その結果律令制度そのもが衰退していくのである。

「租」の税率は確かに低い、比較的税が低率で農民からも人気が有った戦国時代初期の武将「北条早雲」でも4分6分で、4分を税としている事から考えても異様な低さが有るが、これにはからくりがある。
農民の救済策が制度化して準税制となり、公の税制である「租」を凌いで行くのだ。

それゆえ「租」の財源は地方行政を賄うために使われ、国庫はこの準税制を主体にして行くのだが、その仕組みは高利貸しである。
「出挙」(すいこ)と言う制度は元々貧しい農民を救済するために種籾(たねもみ)を貸し付ける制度だったが、それがいつしか制度化してしまい、農民は必ず国司から種籾を借りなければならなくなり、その返済は秋に5割の利息となっていた。

現代の勘定と当時の勘定は異なるかも知れないが、例えば一反の田に苗を植える為に必要な種籾が凡そ2升、それが返すときには3升となる訳で、これは最も効率の良い現代農業の勘定で有ることを鑑みるなら、春に1反当たり4升から5升の種籾を借り、秋にはそれを6升、7升5合で返さなければならず、して全体の収量が1俵から2俵だった場合、この返済は総収量の20%を超える時が有ったのではないだろうか。

しかも春に貸し付けて秋には50%の利息が付く、こんな素晴らしい金融商品など他には無いほど旨味のある制度だったが、その本旨は「農民救済」である。

そしてこうして5割の利息を付けて国司が種籾を貸し付ける制度を「公出挙」(くすいこ)と言ったが、「公」の区別が有ると言う事は民間の「出挙」も存在したと言うことで、こちらは更に凄い。

何と利息は相手次第で10倍にも100倍にもなり、貸し付ける時は小さな枡(ます)を用い、取り立てる時は大きな枡で取り立て、その取立ては大変厳しく自殺者、夜逃げが続出したが、これをやっていたのが讃岐国美貴郡の郡司の妻であり、その夜叉ぶりが淡々と「日本霊異記」には記されている。

またこの時代の税の取立人は中央から通達の有った税額を払えば職務を遂行したことになり、中央が定めた税額しか徴収してはいけないと言う決まりが無かったことから、国司や郡司は民衆から取りたいだけ取って、決まった額を中央に支払う制度だった。

ゆえ、初期一反当たりの「租」が2束2把だったものが、余りにも農民が苦しいと言うので西暦706年には稲1束5把に税が引き下げられるのだが、それ以降も農民からは稲2束2把が取り立てられ、この減税は見かけだけで全く減税にも何もなっておらず、そもそも農民は「租」に苦しんでいたのではなく、法外な利息が付く「出挙」と言う農民救済策に苦しんでいたのだ。

更には郡司や国司の妻や親族が「民間の出挙」を運営し、郡司が種籾は貸せないと言えば、農民はその郡司の妻が運営している「高利貸し出挙」を利用するしか手が無い訳である。

振り返って今日の日本は如何だろうか。
律令の時代を笑えるだろうか。
本来税制の根本となるべき「所得税」が蔑ろにされ、その枝葉の「消費税」と言うわけの分からない税制に国家が依存し、その増税を政治生命だと声高に唱える総理がいる。

また政府や行政が国民の為としている「補助金制度」は本当に国民の為になっているだろうか。
例えば行政から補助金を受け取るとき、その補助金は全体の20%、全体の40%などと言うものが殆どであり、それゆえ補助金を受ける民間事業者や個人は残りの80%、60%を賄うことで企画や事業を推進するが、結局は60%分を支出するだけに終わってしまったうえ、その成果は予算を消化したことも成績になる、行政の役人の手柄になって終わってしまっていないだろうか。

税制の基本はあくまでも「所得税」である。
だからこの税収を増やす議論がなされず、消費税が議論されるなど論外であり、所得税を減税し消費税を増税するなど、律令の時代の「租」の減税と、その裏で蔓延る「出挙」の関係に全く同じである。

そして国民救済のための補助金制度、これもどこかでは「現実出挙」になっていないだろうか。
お金と引き換えに私たち国民は一番大切なものを失っていないだろうか。
律令国家の衰退は「出挙」、それも公人が裏で運営する民間の「出挙」によって衰退した。

ちなみに正倉院の中に保存されている、当時の年間収支決済には「出挙」と言う名前の税が出て来ない。
全て「租」、「正税」と記されている・・・。