2019/07/23 05:56

第二次世界大戦中、特に東南アジア戦線ではイギリス軍はさしたる戦果をあげていない。
その中で第七十七旅団の活躍は唯一の戦果と呼べるものであった。
ゆえにイギリス国内ではこの第七十七旅団の活躍を大きく賞賛する動きが起こってくるが、新聞各紙はこの第七十七旅団を指揮したウィンゲート少将を「英雄」と書き連ねていく。

しかしこうした英国本土のウィンゲート少将に対する人気は、その一方でイギリス軍インド司令部の反感をかい、その理由はおそらく自身等の怠惰からくる僻みだったのだろうが、第七十七旅団将兵の作戦損耗率が30%を超えた事を理由に、ウィンゲート少将にインパール基地での待機を命じたまま、作戦活動には参加させない方針が取られてしまう。

周囲の雰囲気を微妙に感じ取ったウィンゲート少将、彼はここで軍からの退役を考え、七十七旅団の作戦報告書を書く。
だがこの頃、どうにもビルマに展開する日本軍に比して積極性にかけるインド英国軍司令部に対し、不満を持っていたイギリス・チャーチル首相は、英国軍の非積極的展開に対しての関係書類を集めているうちに、偶然にもこのウィンゲート少将の報告書を目にすることになる。

そして少将の報告書を読んだチャーチル首相は一言・・・。
「この男は天才だ・・・」
そう言うと秘書に命令してウィンゲートを英国本国に召還し、昭和18年8月4日、食事を取りながら話をするが、その時のチャーチル首相のウィンゲートに対する印象は次のようなものだった。

「私は最高の能力を持つ男に出会った・・・」
「彼には国家の運命を担う自負心などない、しかし宗教に対する激しい信仰心と、それに支えられた過酷なまでの使命感、冷静な責任感に裏打ちされた自信がある」
「危機に人生の意義を認め、自身の判断力と決断だけを信じている、戦時に措いて、戦場の指揮官として彼ほどの適任者は存在しようが無い・・・」

チャーチルはこの直後に予定されていた、カナダでのアメリカ大統領ルーズベルト大統領との会談にウィンゲートにも同行するするよう求め、これに同意したウィンゲートは客船「クィーン・メリー号」に乗り込み、チャーチルとともに一路カナダへ向かうことになる。

カナダ・ケベックのでの会談にはイギリス、アメリカの両作戦参謀本部首脳も出席する。
今一つ冴えないイギリス軍の作戦に何か打開策はないか、そう考えたチャーチルだったが、クィーン・メリー号の船上でそうしたチャーチルの意図を感じたウィンゲート少将、彼はもしかしたらチャーチルが自分を本国に召還した時から、チャーチルの意図が分かっていたのかも知れない。

クィーン・メリー号が出航して間もなく、ウィンゲート少将は船内でチャーチル首相とイギリス参謀本部長「サー・アラン・ブルック」大将に、ビルマ制圧作戦プランを解説するのだった。
「兵力は2万6千500人、6個旅団を戦闘、補給、それぞれ半分づつ分け3つの軍に編成し、第1軍は蒋介石と共に中国雲南から、第2軍は北西部から、そして第3軍はその南部からビルマに進行し、ビルマ北部を制圧する・・・」

この計画は確かに画期的では有る。
やはりゲリラ戦であり、敵中に有って敵を分断し補給を絶つ作戦だが、その分リスクも大きく冒険的なプランだ。
穏当なブルック大将の顔色を思わず伺うウィンゲート、しかしブルック大将は「良い作戦だ」と簡単にこれを了承する。
「決まった、これでイギリス軍の展開は決まった」

プランもないまま参加しなければならなかったケベックでの会談に光を見つけたチャーチル、おそらくこの夜は少しは眠れたのではないだろうか。

ケベックではチャーチルの紹介でルーズベルト大統領に直接作戦を説明したウィンゲートだったが、彼は大きな声を出さず、またその話し方は決してカリスマ性のあるものではない。
しかし、ウィンゲートの話し方には独特の魅力が有り、彼は質問されても暫くは黙っていて、やがてそのしばらくの時間がとても待ち遠しい感じになっていくのである。

ルーズベルトもはじめはウィンゲートに質問を浴びせていたが、やがて少しずつ言葉が少なくなり、最後にはウィンゲートの説明に黙って頷いていた。
「将軍、貴下の難局を打開せんとする努力に敬意を表する」
ルーズベルトは大きな拍手を送ると共に、ウィンゲートに握手を求めた。

こうして自身の作戦に英国首相と合衆国大統領のお墨付きを貰ったウィンゲート、しかし華々しい外交の舞台での成功はイギリス軍、とりわけインド司令部には面白くなかった。
司令官である、または参謀本部である、いわゆるウィンゲートの上官を超えてウィンゲートが認められ、自分たちに命令しようと言う訳である、
これで面白い訳が無く、カナダから帰って早速作戦を実行に移そうとした時点から、ウィンゲートに対して組織の嫌がらせが始まって行く。

インド司令部に着任した早々、宿舎やオフィス、自動車などが準備されておらず、副官に聞いても「何も聞いていはおりません」と言われるのである。
参謀本部長通達が有ったにも拘らず、この有様だった。
また作戦そのものしても、「6個旅団も用意できるくらいならゲリラ戦ではなく、正規戦にすべきだろう」とか、「師団なみの兵力でゲリラ戦など聞いたことがない」と言う意見が出て、作戦はようとして進捗しなかった。

このようなインド司令部に対し、ウィンゲートは「分かった、私の命令は参謀本部長の命令でもある、それを実行できないのなら直接チャーチル首相に連絡する」、或いは「私の上官はあなただけでは無い、大英帝国首相、合衆国大統領から問題が有ればいつでも連絡するように言われています」と返し、この事が更にインド司令部の反感を高めて行った。

ウィンゲート少将には大きな目的が有ったし、その作戦には自信が有った。
いずれは兵力10万、20個旅団を率いてバンコク、やがてはハノイ、インドシナを
解放してアメリカ太平洋艦隊と手を結ぶ、そんな壮大な計画をも頭に描いていた。
しかし現実の組織は厳しく、結局ウィンゲートの作戦は投入部隊が当初の6個旅団から3個旅団に縮小され、その代わりに2個旅団をグライダー部隊として、1個旅団を陸路からビルマに潜行させる事で実現した。

そしてこのウィンゲートの作戦を最も恐れたのが、日本軍だった。
日本軍のインパール作戦は、このウィンゲートの動きに対応したものだったのでは無いかと言われていて、事実ウィンゲートの2回目の兵団派遣出発時の3日後、日本軍第15軍の作戦が始まってくるのであり、インパール作戦が始まってくると、ウィンゲートの後方攪乱作戦は日本軍を大いに苦しめ、結果としてこれで補給を絶たれた日本軍第15軍は敗退していく。

ウィンゲート少将はインパールのララガット飛行場から先陣を切って出撃していく、初めて自分が指揮した第七十七旅団のグライダー部隊を見送っていた。
準備、訓練が未熟なため61機のグライダーは操縦ミスから、または過積載によってあっと言う間に28機が山に激突したり、墜落してしまった。

昭和19年3月24日、「オード・C・ウィンゲート」は作戦指揮展開中に搭乗していた飛行機の墜落事故で死亡した。

私は天才では無いが、月明かりでプラトンを読み、命ギリギリのところで、闘うことでしか自身が生きている事を確かめられないこの男の気持ちが少しだけ、ほんの少しだけだがわかるような気がする。