2019/07/28 06:05

「マニフェスト」と言う言葉の発祥はイギリスである。
1830年、中流階級にまで選挙権を拡大した改正選挙法案が議会を通過し、ここに改正後の状況に対応した次世代保守党の政権構想を示す必要が有った、保守党指導者「ロバート・ピール」は、1832年、「タムスワース・マニフェスト」と言う政権構想を打ち出し、これを元にして当時選挙権の資格が自己申告だったことから、有権者を組織的に増やそうとしたのが、おそらく世界初のマニフェストと、その目的だったのではないかと思う。

従ってマニフェストとは「政権公約」と同義だが、日本で最初にこの言葉を使ったのは2003年春の統一地方選挙で、「北川正恭」当時三重県知事が、知事選立候補者に対しマニフェストを作成し、それを発表して県民に信を問おうと提唱したのが始まりではなかったかと記憶している。

では何故日本でマニフェストと言う言葉が使われるようになったかと言うと、その理由は明快だ。
それまで使われていた「政権公約」と言う言葉が余りにも守られず、この言葉自体が国民に緩い拒絶反応、若しくは「政権公約」と言う言葉がイコール「信用できない」と同義的印象を与えるようになった為だ。

言葉と言うものはそれを担保する行動や現実が有って始めて成立し、その行動や現実の意味を代表する。
例えば「私はバカだ」と言いながら、しかし現実の行動では約束を忠実に守り、礼儀正しく、社会の規範となるもので有れば、「バカ」は良い意味を持ってくる。

だが言葉で上品であっても、如何に美しい言葉を口にしようと、それに対する行動が担保されなければ、やがてはその上品な言葉や美しい言葉は全く逆の意味を与えるようになっていくものであり、民主党が政権政党になった直後の日本の国民は「マニフェスト」と言う言葉に何か新しい風を見たように思ったかも知れないが、その後の在り様を鑑みるに、今に至っては「マニフェスト」など「政権公約」よりも信を失っているのではないだろうか。

一般的に集中した権力は強く効率的であり、分散された権力は弱く効力がないが、日本の中で最も大きな権力を持つ者は「内閣総理大臣」であり、本来こうした権力の集中が存在すれば、少なくとも「選挙公約」も「マニフェスト」もここまで国民の「信」を失うはずはないのだが、日本の内閣総理大臣の権力には阻害要因が存在している。

議会制民主主義の老舗であるイギリスの選挙制度は、日本のそれと大した差がないように思われるかも知れないが、有権者は各々の小選挙区で1人の候補者に1票を投じ、この際有権者の関心は小選挙区の候補者にあるのではなく、その候補者を党として指名している政党、その政党の党首に関心がある。

つまり政党は党首を立てて選挙を戦うのであり、政党の党首は選挙で選ばれれば間違いなく首相になる事から、制度上イギリスの国家元首は間接選挙で選ばれているように見えて、その実、国民から直接選ばれていて、選挙も全て政党が運営して公約(マニフェスト)を掲げて戦う訳であり、このようにして選ばれたイギリスの首相は、国民に対して直接の責任を負っていると自覚せざるを得ない。

しかし日本の議会制民主主義は中途半端さが漂う。
政党政治の政党の概念がぬるい。
日本の政党の候補者は自分で集めた資金と、やはり自分が集めた後援会などの組織を使って選挙を戦う為、選挙公約はどちらかと言えば候補者個人の解釈による公約であり、党の公約など自分の都合が悪ければ平気で無視されたり、捻じ曲げられたりする。

それゆえ日本の政党の候補者は「個人」として選ばれ、党への帰属意識よりも派閥やグループへの帰属意識が強く、この意味では政党助成金なども、結局は現職議員の自立性を高める事にはなっても、基本的には政党が捻出する資金ではない事から、政党としての結束を弱める効果しか上げておらず、党首も派閥の合従連衡によって選出され、全く安定していない。

イギリスの首相は国民に対して直接責任を負っているが、この意味では日本の内閣総理大臣と国民の関係は3重、4重にも間接的であり、直接国民に対して責任を負っていない分、内閣総理大臣の権限は分散された状態と言える。
イギリスの議会制民主主義と日本の議会制民主主義は同じように見えていながら、その入口が全く逆なのである。

またこうして「個人」が選挙で選ばれる選挙制度は、一人一人の議員の意識の中に「地元と中央のパイプ役」と言う言葉を唱えさせる下地を作ってしまい、ここでも利益誘導主体の環境が出現し、大義で一致団結する事は難しくなるばかりか、同じ傾向は政府予算に付いても言えることで、予算が地元や特定の財界に流れる道が作られ、これをして選挙資金や組織が作られ、これがいわゆる政財官の三角関係を形成し、どこかでは内閣総理大臣よりも大きな政策決定能力を持つ、若しくは内閣の政策に制限を加える能力を獲得していくのである。

日本の政党は首相決定の要綱を、イギリスのように首相が国民に対して直接責任を持つ方策にすれば、政策決定が現在よりは迅速になり、更には首相の権限も制限を受けずに済むことを理解していない。

或いは首相が権限を持つを事を恐れているのかも知れないが、そのような事では初めから自分達には能力が有りませんと言っているようなものであり、せめて政権政党の党首が首相を辞めた時は必ず総選挙する法案でも通してくれれば、現在よりは首相の国民に対する直接責任が重くなり、しいては首相も権限の制限を受けずに済むのではないだろうか・・・。