2019/08/31 19:15

 

輪島塗の一つの隆盛を語るなら、石川県立輪島実業高等学校の存在は避けて通れないかも知れない。

かく言う私も同校の卒業生なのだが、この学校の発端は輪島塗の専門学校を要請した漆器業界が発端となったものの、石川県の意向から実業高校として、機械科、木工科、商業科を開設し、後に木工科に輪島塗とデザインの過程を組み入れた「インテリア科」を発足させる形で1970年に開設された。


私はこのインテリア科の第6回生となるが、当時はまだプールは無く、体育館も出来て間もないものだった。

元々勉強よりは手に職をが根底に有った為か、当時入学試験の合格点は名前が書ければ大丈夫と言われたが、どうだろう5教科で150点も取れていれば、入学できたのでは無かっただろうか・・・。


インテリア科の充実は大変なものだった。

講師は全員現役の職人、私のクラスの担任は現在の人間国宝、前史雄氏だったが、そんな事も全く知らない私は、中学の終わりに友人から、手に職を付けられて何でも作れる、おまけに勉強はしなくても入れると言われ、何も考えずに受験し、試験発表の日も、家でジャガイモを囲炉裏で炙って食べていたら、高校から電話がかかってきて、今すぐに来なさいと言われ、渋々ディーゼル機関車に乗ったものだった。


つまり初めからやる気は無かった訳だが、家のしきたりが中途半端を許さないものだったので、1回も休まず学校には通った。

当時隆盛を極めていた輪島の漆器業界は、毎年ここから弟子や社員を雇用し、その意味では輪島実業高等学校インテリア科は、ある種の専門学校だったとも言えた。


高校3年生の夏、友人とマージャンを打ちながらタバコをふかし、(高校生は真似してはいけない・笑)就職はどうすると言われた私は、取り合えず金だろうと言う事になり、漆器業界には目もくれず、ローン会社の募集に応募した。

なんと言っても給料の高さが魅力で、輪島塗の弟子だと月給が3万円、5万円の世界だったにも関わらず、ローン会社は16万円と言う給料だった。


金沢まで面接に行った私は見事かどうかは解らないが合格、よっしゃ、これで家を出れると考えていたのが甘かった。

後日採用通知が届き、それを見た家族から大激怒を食らってしまう。

当時のローン会社は取立てが厳しく、ヤクザみたいなやり方が横行していた為、家族からそんな仕事をするなら勘当だとまで言われてしまった。


で、仕方なく給料が5万円だった漆器店の弟子入りに決めたのだが、その過程がまた今から考えると、本当に何も考えていなかったなと思う。

面接に行った漆器店の親方がカツ丼をおごってくれた、イコールこの人は良い人だ、そう言う流れだったのである。