2019/09/01 18:22



人間が受容できる光の波長は400nmから700nmと言う具合に、その間の受容可能波長は連続しているが、これがミツバチになると300nmから640nmくらいの波長を受容し、しかも受容波長は途中で3箇所途切れる部分がある。

しかし人間が視覚として受容できない300nmから400nmの波長、つまり紫外線を色として認識していて、同じようにモンシロチョウも紫外線を認識できる事から、モンシロチョウでは雄が紫外線を反射せず雌が紫外線を反射する機能があり、これによってモンシロチョウの世界では雄雌の区別が明確になっている。

だがこうして雄雌の区別が明確な生物と言うのは比較的マイノリティーであり、この点で言えば近年男女の区別が不透明になりつつある人間社会も、生物界的には整合性を持っている、持ちつつあると言う事なのかも知れない。

人の目は構造的にはカメラに類似した構造を持っていて、直径24mmのレンズを通して網膜と言う瞬間フィルムに映像が結ばれるが、その記録媒体はデジタル記録のような構造になっている。
そしてこの網膜には「かん体細胞」と「錐体細胞」(すいたいさいぼう)の2種の視細胞があり、「かん体細胞」は暗いところで機能するために色を認識できないが、「錐体細胞」は主に明るいところの色を認識する機能を持っている。

更に錐体細胞には430nm付近を吸収する「青錐体細胞」、530nm付近を吸収する「緑錐体細胞」、560nm付近を吸収する「赤錐体細胞」の3種が存在し、これらはそれぞれ青、緑、赤の光に反応しているが、例えば黄色を認識する場合、そこには「赤錐体細胞」と「緑錐体細胞」が反応していて、これによって脳は黄色を認識している
つまりこうした原理はパレットで色を調合している原理と似たようなものと言う事ができる。

「錐体細胞」は網膜の中心部にある「黄班」と言う部分に多く分布し、「かん体細胞」は網膜の周辺部に多く分布しているが、では人間は暗闇で色を感じることができないかと言えば、そこに見ようとする意思が有るなら、実際に色を認識できなくとも脳は経験上の色を見せる事ができ、反対に見ようとする意思がなければ、色を認識しながらその映像は白黒以下の精度にすら見せていない事になる。

この原因は人間の脳と視神経の関係にあり、視神経は間脳の直前で交差し、視索となって間脳に入るが、人間の場合、目の内側の網膜から出た神経が交差して反対側の視索に入り、外側の網膜から出た神経は交差せずにそれぞれの側の視索に入り、両眼の網膜の右半分に写った像は大脳の右視覚野へ、左に写った像は大脳の左視覚野へと入って行く。

それゆえこのシステムは情報のルートを2つに分けて安定性を保つと共に、網膜に投影された像が立体的に認識される機能があるが、その他に人間の視覚は「記憶」と深い関連があることが分かり、基本的には人間は「過去」であるとも言う事ができる。

記憶の部分にはあらゆる情報ツールが入り乱れる事になるが、それが言語であれ聴覚、味覚、触覚であれ、どこかでは視覚に連動、或いは転嫁されて記憶される部分があり、従って我々人間の記憶や知識と言った部分は、もしかしたら言語をインデックスにした視覚である可能性が出てくる。

このことから我々が人の話を聞いて、または書物を読んで得ているように思っている知識は、実はそのことによって何かを理解しているのではなく、記憶があろうと無意識であろうと、どこかで視覚的に認識したものが繋がって理解しているのかも知れない。

あらゆる視覚情報はそれを記憶したと認識することなく記憶され、それらが近似値を持つもの同士で群が形成され、必要なときや、何かで言語がキーワードになった時、一瞬にしてその群や、または他の群からも引き出され整理される、この事が知識と言うものなのかも知れず、その場合、今から知ろうとする事と言うのは、自身の内に既に理解する種を持っていることになる。

そしてこうした記憶の群が、何かで言葉では表現できないものに出合った時、そこにあらゆる記憶が入り混じった状態で浮き上がって来て、これが人間の感情と言うものなのかも知れない。

ゆえ、言語と視覚、そして記憶は互いに深い関係に有って、こうした中で言語が曖昧になっていく社会は視覚、つまり物事をどう見るか、どう見えるかにも微妙に影響を与えてしまうばかりか、視覚が記憶であるなら、人間のあらゆる事象や言動は、究極的には一瞬々々過去になりつつあるものの中に存在し、その未来もまたあらゆる記憶と言う過去の投影とするなら、一人一人の未来観もまた歪んでいくのかも知れない。

記憶が部分的にでも視覚を通して為されるなら、我々が使っている言語は未来と言う言葉は持っていても、その意味するところは「過去の何か」の集積と言う事なのかも知れない。