2019/10/28 20:32



自身がBASE様のサイトで漆器を売っていながら、買った物を記事にしてどうする、と言う気はするのですが、衝動買いしてしまいました。

 

古い時代の京焼きです。

裏に銘がない事から、これは市販品だった事が伺えますが、私自身の記憶ではこの形と紋様を見るのは初めてなので、おそらく現在残っている物は僅かしかないのだろうと思います。

 

この紋様の彩雲は一つの古代彩雲様式ですが、流石に「仁阿弥道八」(にんあみ、どうはち)以降写しを得意として来た京焼きでも、この彩雲の写しは少なかったと見られ、紋様と空間のバランスは、既に神の領域と言うものを感じてしまいます。

 

表に三色の雲、裏面には一つの銀雲、この銀が錆びて黒くなり、赤の色にも白の色にも抑えがある。

伝統工芸の色は鮮やかさよりも、むしろ重みであり、この点では素地や素材を超えた鮮やかさには軽さ、危うさが付きまとう。

自然に原色の色が無い事と同じように、自然の延長線上に在る工芸の色は、原色に近い鮮やかさではないと思う。

 

口径115mm、高さ65mmですから、抹茶椀に使うとしたら、若干小さい。

しかしご飯茶碗や吸い物椀としたら、やはり少し大きいものの、大きくもなく、小さくもなく、空間に締める密度も緻密にして神経質ではなく、時代の色がその深みを作ってもいる。

 

また恐るべきはこの茶碗の口付近で、視覚的には絶対見えないが、厳密には「端反茶碗」だと思う。

外側はコピー用紙1枚の半分ほどの厚みで、反っていて、内側もやはり同じくらい微妙な厚みで上縁側に倒れていながら、見た目は真っ直ぐにしか見えない。

 

しかもこの上縁の厚みは、見た目に強度的な不安を抱かせないギリギリの、少し手前の厚みであり、これで汁物を飲むと、普段こぼしてしまう子供でも、きっとこぼさずに飲むことが出来る。

 

驚くべき事だが、もしこれを漆器で再現するとしたら、売る時に相当なごたくが並ぶことになるだろうにも関わらず、市販品という言葉の説明が効かない品なのである。

と言う事は、当時これが普通だった事を示していて、現在の工芸品の権威主義や言葉の多さに鑑みるなら、この100年で工芸界が失ったものの大きさを痛感せざるを得ない。

 

持った時の感触も絶妙で、茶道では持った時、思ったより軽く感じる物を上とするが、この茶碗の軽さは半端なく、多分輪島塗椀の素地、欅木地段階の薄手椀より軽いのではないかと思う。

 

いつかこれと同じ形で、総黒(そうくろ)と皆朱(かいしゅ)塗、同じ紋様の漆塗り椀を作ってみたいものだ・・・。

多分1万5千円も有れば作れると思うが、問題は型を取る為に木地職人のところへ、この茶碗を預けて措けるか否かと言う事になる。

今頃手荒な事になっているのではないか、落として割れていないだろうかと、茶碗が人手に在る間ずっと、夜も眠れないかも知れない。

 

もしこの茶碗を漆塗りで再現するとしたら、その一番の阻害要因は、私自身と言う事になるのかも知れない。