「死んでいく視覚」 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2019/11/02 07:54



会合が終わる時間が遅れ、父親と妻の昼ご飯を作る時間が無くなってしまった私は、仕方なくコンビニに入って弁当を2つ買う事にしたが、代金を支払う時、その店のおそらくアルバイトで有ろう若い女の子が、しきりに「串カツ」も如何ですかと勧め、まるで祈るような眼差しを向けるものだから、大して食べたいとは思っていなかったのに串カツも5本買ってしまった。

そして家へ帰る途中の信号待ちで何気なくビーニーる袋に目を向けると、良い感じで串カツが少しはみ出ていて、もうすぐ12時になろうとしていた事もあり、朝から何も食べていなかった事もありで、思わず串を握ってしまった私は、右手にハンドルで左手につまんだ串カツを口に入れながら、信号が青になったのでアクセルを踏んだが、少し進んだかと思ったら前の車がいきなり止まってしまい、それに合わせてブレーキを踏んだ途端、串カツの串で口の中をグサッとやってしまった。

何となく串カツを手にした時、こうなるのでは無いかと言う予感はしていたのだが、コンビニの女の子の祈り眼差しには気を付けよう、車を運転しながら串カツを食べるのはやめようと心に誓った一日だった。

さて今夜はどうも視聴率が低迷しているらしいNHK大河ドラマ、「平清盛」を少し擁護しておこうか。

私は「デス・ノート」以来「松山ケンイチ」と言う俳優を高く評価していて、これまで余り見ることのなかったNHK大河ドラマの「平清盛」も毎週観ているのだが、視聴率が低迷している由はとても残念だ。
だがおそらくこの原因は映像と脚本のミスマッチであり、俳優の演技にその原因が有る訳では無いと思う。

例えば昼飯に何を食べようかと迷った時、いくつかの質問に答えればスマートフォンがどこで何を食べたら良いか教えてくれるような時代、余りにも多くの情報は選択肢の幅を広げ過ぎて、個人の価値観に対する責任を失わせる。
情報は本来それを使う事が目的であり、その意味に措いては情報がどこに存在しているかは大きな問題では無いが、ネット社会が始まる以前の情報は自己集積であり、従って知っている事が価値と言う面は確かに存在し、それが権威となる部分も有った。

しかし今日のように情報が氾濫する社会に有っては、情報管理が自己集積によって為されるのでは無く、その辺に転がっているものをいつでもどこでも使えるのであり、本来は個人が責任を負うべき自己管理情報までもが、インターネットによるアウトソーイング(外部委託)になってしまった。

この為一般的に世界中の人間が情報集積による総合的な判断能力を失いつつあり、自身が考えると言う行為を鈍らせてしまっている傾向に有る。
考えなくてもどこかで誰かかが考えたことに近ければ、それを自身の考えとしまう社会が発生し、安易で簡略な考え方が勢力を持つ薄い社会が登場したのである。
この事からネット社会は「考えなくて良い社会」を生み、その分情報を提示する側はより細部に渡る説明をしなければならない状況が出てくる。

法律や規制が細分化していった経緯はここに原因が有り、自己判断の欠如はどこかで大きな支配を許す事に繋がると共に、「視覚補填」や「想像」に関する能力を低下させる。
すなわち視覚情報と視覚情報を連結する事が難しくなるのであり、ここでは映像中心のクオリティは追求されても視聴する側の傾向を意識する余り、「考えずに済む映像」を作り出す事になる。

ハイビジョンなどの映像は確かに綺麗だが、NHKに関して言えば、前年の「坂本龍馬」にしても細部のクオリティにこだわり過ぎ、全体の構成や脚本が極めて貧相だった。
そしてその貧相な部分を人気の有る俳優や歌手で映像的に補う、若しくはそれに主体性を置く事で今の時代の先駆と考えてしまったところに、制作責任者の認識の甘さがある。

現在日本の人口動態は「考え無くても良い社会」に生まれた人口より、圧倒的に「考える時代」を生きて来た人口の方が多い。
それゆえここで求められる事は綺麗な映像だけでは無く、全体の構成力、脚本、演出の力と言うものであり、この点に措ける「平清盛」は話にならないほど薄く、平面的だ。
重要な場面はもっと細かく描き、そうでもない場面は簡略にするなどの構成が重要だ。

また画像や場面にこだわりすぎて細部まで画面に入れようとすると、画像は説明の多いものとなり、個人が持つ世界観や考え方の幅を狭め、その事が多くの不満となってしまう。
近年パニック映画などの制作に措ては、世界的にそのパニック本体を描かず、小さな個人的な場面を描きながら、大きなパニックを描く手法が多くなっているが、これは手法で有って、そこから見えてくるものは予算の少なさでしかない。

中途半端に綺麗な映像、考える必要のない視覚情報、場面独立型の視覚情報は人間の視覚情報網を殺してしまう。
人間は生まれて物心付いた時から現在までの全ての中に有り、従ってそこで男で有るか女であるかの区別は無く、男女とも常に男になったり女になったりしながら、そして自分がどこにいるかも分からない中で生きている。

ゆえ、人の記憶とも連動する視覚情報管理能力やその判断整理能力を失う事は人間の想像力を奪い、夢や希望を奪う事になるのである。
関東偏重、完全秘密主義の視聴率など妙な世論調査と同じで、決して日本国民の意識を代表してはいまい。
情報に振り回されて小細工をするのでは無く、もっと情念を持って脚本を書き、演出を考えないと、「松山ケンイチ」と言う名俳優がかわいそうだ・・・。

※  本文は2012年7月27日、yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。