2019/11/20 07:58

日本に住んでいると気が付かないかも知れないが、人類と言う単位で考えた時、平和と言う状態を戦争の無い状態と定義するなら、平和が異常事態であり戦争状態が通常と言える。
かろうじて記録が残る人類史の6000年の期間に発生した戦争だけでも15100回、歴史的記録に残っていないもの、更には紛争などを含めると、少なくともこの9倍の殺し合いが発生したと言われている。

人類は平均で1年間に2・5回以上の戦争を引き起こし、これまでに紛争を含めるなら、1ヶ月に2回づつ殺し合いをし続けてきたと言う事になる。
またハーバード大学社会学部創設者であるロシア出身の「ピティリム・ソローキン」(Pitirim Alexandrowitsch Sorokin)は、その説の中で12世紀から19世紀までは、戦争期間が平和期間を超えていたと指摘し、その平和期間も次の戦争準備に充当られていたと著している。

実際太平洋戦争、第二次世界大戦以降の国際社会を考えても、1945年から2000年までに発生した内戦も含めた戦争と名が付く戦闘事態だけでも156、7回であり、戦争の無かった日は25日を超えないのでは無いかとも言われ、有史以来の総合計でも戦争の無い状態は365日を超えていないと推定されている。

その地域に戦争が無い事をして「平和」を概念する事は薄い考え方では有るが、しかしその一方、この薄い考え方は物理的現実を指し示してもいて、この事から我々が当り前だと思っている「平和常存」の概念が誤りであり、その現実は戦争こそが常存であり、平和はその隙間でしかないと言う考え方は60%の正当性を有している。

人類は自身の存在を「他」に対して担保する、最も始源的かつ最終手段である「暴力」から逃れられない現実がここに有る。
従って「平和」と言う概念は実は1つの現実ともう一つの概念、希望から成り立っていることが分かるが、戦争の無い状態を指す現実的平和と、古典インドや仏教など宗教の中に存在する心的、形而上の平和、この2種が混成して一般的な平和の概念となっている。

それゆえ民衆が戦争の無い状態にある時、そこに存在する平和は宗教上の平和と同一線上に有って整合性を持つが、現実的平和が崩壊した場合、民衆は現実的平和を求めて宗教上の平和を膨らませ、長く平和が常在した場合は、それが人間としての権利で有るかのように錯誤するが、平和は戦争状態では無い事を指している現実は、平和そのものを担保するものが、最終的には力でしかない事を知らしめてもいるのである。

振り返って日本の平和を鑑みるなら、まことに脳天気なものであり、事の道理であれば、それはまるで世界が守って当然と思っているような非現実的な平和思想が存在している。
平和を維持しているものは武力的均衡で有る事実は疑いようが無く、それは人類史が証明している。
日本国憲法第9条は現実では無く理想であり、これを担保しているものは日本の民族的崇高さなどでは無い。
アメリカの軍事力と日本が持つ自衛隊などの軍事力、それに相互に疑心暗鬼となっている侵略希望国との均衡で、日本の平和が維持されている。

永世中立国のスイス、またはスウェーデンなども近いものかも知れないが、この両国が国際的な武力的中立国として存在出来るのは、地理的条件と国内で施行している「国民皆徴兵令」、軍事兵器開発、その装備による独立的軍事力によるものであり、理想国家として名を馳せる「コスタリカ」などもその現実は「米州機構加盟国」であり、軍隊は廃止したがいつでも徴兵令が施行できる状態に有り、市民警備機構と言う準国軍組織が編成されている。

「平和」は平和を担保できない、平和を担保するものは軍事力なのであり、この軍事力を最終的な手段とするなら、外交は軍事力を背景にした第二義的力と言う事が出来、経済はその次の力と言うことができるだろう。
ゆえ、ここで平和を担保するものが軍事力だと書いたが、軍事力を持てば永遠に安泰なのかと言えばそうは行かない。

常に時代に即した装備、また外交努力、経済的な安定が有って、始めてそれが国家の力となるのであり、10年前の第一義の力、すなわち軍事力は、最新の第二義的力である外交に及ばない場合が有り得るが、軍事力の完全放棄は第二、第三義力を放棄した事と同じ意味を持つ。
つまり軍事力を全く持たない場合は、外交も経済も力とはならないのである。

そして平和の概念を戦争の無い状態とするなら、この軍事力の対極にあるのが「被支配」である。
封建制度は比較的どの地域でも長い非戦争期間をもたらしているが、日本でも江戸時代には大きな戦争が存在していない。
その代わり民衆は強大な権力と武力で統治され、生きるのがやっとの状態かも知れないが、現実的平和と言う観点すれば強大な力による支配は「平和」の状態と言う事ができる。

この事から軍事力はまた支配、支配はまた平和と言う流れが存在する事も事実であり、支配は「制御」で有ることから、平和とは一つの制御、その形と言えるのかも知れない。
人類に取って制御とは大変困難な命題であり、個々の人間の自分自身を鑑みても制御は難しく、生物の基本的な本能が「拡大」にある時、制御は「破壊」や「崩壊」の意味をも包括する。

為に人類に取って「制御」は困難な命題となるのであり、ここで言う支配は2つの側面を持っていて、強大な力は支配する側となり微弱な力は被支配となって、人間は個々の単位でもその両方を具有し、支配は被支配にどんな形、例え皆殺しで有れ納得させなければ成立しない。

軍事力に限らず「力」が最終的にもたらすものは「破壊」だが、その破壊は破壊する側、される側双方に制御ともなる。
そして人類に取って「制御」は例えそれが人為的なものであれ、自然がもたらすものであれ同じ事であり、避けて通れない道、また避けてはならない道で有るように見える・・・。