2019/11/25 07:32



例えば夕暮れの海、今しも沈みゆく太陽の光に空一面がマゼンダ色に染まる瞬間、これを何故綺麗だと思うか説明できる人間は存在できず、この男が好きだ、この女が好きだと思う気持ちを全て言葉に現す事はできない。

言語は数学の「式」と同じもので、それが事の理を現すものでは無く、何か大きなものを「限定」したものと言う事ができる。
ピタゴラスの定理を理解したと言う場合、それは一つの「限定」を知ったのであり、では何故(a×a)+(b×b)(c×c)なのかと言う根本的な定理の存在理由は分かっておらず、この事が未来永劫絶対的なものかと言えば、その保証は無いかも知れない。

またこの世界、宇宙の有り様は、簡単に言うなら100個の白い粒の中に20個の赤い粒が混じっていて、この赤い粒はあっちに4個、こっちには2個、そしてここには1個も無いと言う具合に不均衡に存在していて、遠くから見ればピンクに見えるようなものであることから、どの「場」も全く同じ「場」の存在がなく、この事実がミクロからマクロまで連続している。

従ってどこか1つの「場」での現実は他の「場」での現実とはなり得ず、全体の現実は存在できない。
もし我々が真実を求めたいとするなら、その真実は無限数に存在する事になる。
こうした事から人間が何かを理解したと言う場合、それは常に大きなものを切り取ったと言う事で、小さなものを得て大きなものを放棄して行くと言う側面を持っている。

白い粒と赤い粒の有り様は人間も同じであり、全く同じ位置に白い粒と赤い粒が存在している人間は有り得ない事から、人間社会の理解と言うものは完全にイコールでは無く、限定された条件下のルールに同意した、若しくはルールを策定したと言う事であり、それは初めから錯誤された曖昧さの中で行われる相互の思い込みでもある。

対象物、相対者が存在する場合の言語と理解の関係は逆転現象になるのであり、自分の話す言葉は相手の「限定」を現していて、相手の言葉は自分の言語であり、自分の理解となるのだが、どの人間も紅白の粒が同じ位置では無い為、正確な事実と言うものも存在せず、全く理解していない状態を理解したと錯誤し、それをして社会が形成されているのである。

赤い色と言った場合その赤は無限に存在し、一人一人赤の色は違うが、この事は正確な赤の存在と言うものを否定するものであり、例えば同じ赤い色紙を見ていてもそれは個人個人違う赤に見え、同じ人間でも体調や季節、時間帯によって同一の赤とは違って見えているはずだが、この事に同一性を持たせているのが「脳の補正機能」と言うものだ。

地球上の生物は一般的に多くを作り、それを淘汰、または自己死滅させて形を作って行く傾向を持っているが、言語は視覚に措ける補正機能と全く同じで、厳密に言えば同じでは無いものを「群」に集め、その曖昧な部分を補正して統一されたものとして認識させ、一つの事象を現すものとなっているが、この仕組みは卵子が受精する際の仕組みと良く似ている。

それゆえ言語はより多くの漠然としたもの、より多くの違ったパターンが存在する事で未来に措ける言語の広がりが支えられるが、一方でその言語に正確性や正当性をもたせようとする行為は、言語の持つ「限定」をより細分化してしまい、予め漠然性を相互錯誤で補正された部分を狭め、この事が言語の幅を狭め、最後は矛盾の中で身動きが取れない状態を引き起こすのである。

真実は無限数あり、人間それぞれの真実もまた人間の数だけ存在する世界に有って、その世界の言語が持つ漠然性、不確定性を奪う事は、言語を「表現」から単なる「契約」の道具へと貶める。
更に近年発展してきたウキペディアなどの検索サイト、或いは如何なる言語もそこに正当性など求める事はできず、言語は「信」によってのみ支えられている事を忘れて行く社会は、正当性に気を取られ言語を蔑ろにして行くのである。

言語や文章では理解は得る事はできない。
この世界の真実が無限数であるなら、そこでの理解は限定が解除された状態と言う事が出来、在るものは「言葉にならない」もの、つまりは「無言」、「叫び」「無意識に出る感嘆詞」などでしかない。
視覚の全てを言語で表現する事はできず、聴覚や触感、嗅覚、味覚もまた然り、だが本当の理解に近い理解はここに存在する。

そしてウキペディアやネット情報のような道端に転がっている石なみに安易な情報は、情報の質を軽くし個人の信念に支えられる部分を消失させ、画一的な情報を皆が共有する事で情報が持つ漠然性や多様な考え方を奪ってしまい、ここから言語を操る術に長けていても、言語そのものが持つ本質が失われた社会が出現し、為に社会から言語を担保していた「信」もまた失われていくのである。

歌手の「宇多田ヒカル」さんが、民主党から離脱した小澤一郎代議士が率いる新政党「国民の生活が第一」に付いて、その名称に苦言を呈していたが、流石だと思う。
私もこの程度の名称しか考えられない、そしてそれが通ってしまう政党には、どこかで失望感やここまで言語の幅が狭まってしまったんだなと言う絶望感を感じるし、同じように「傑作」ポチが「イイね」に変わり、更に「ナイス」になってしまうこのブログサービスを提供してくれている組織にも、強烈な失望感を感じる。

長嶋茂雄のパロディでも有るまいし、私は人の意見に対して「ナイス」などと言う言葉を使うことは有り得ない。
そうした言葉が自分の言葉として表示される事がそもそも恥ずかしい。

※ 本文は2012年8月1日、yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。