2020/03/17 06:26



だが「nationalism」とは本来が「natio」と「gens」と言う差異の有るものから構成されている事、また個人の考え方は決して完全一致するものではないことから、「nationalism」の概念は大まかには「民族主義」「国民主義」「国家主義」の分支から発展したものとなり、国際社会の中でその民族が持つ特異性と多様性を鑑みるなら、各国のそれぞれが同じ歴史を辿ってはいない事をしても、「nationalism」の考え方はあらゆる多様性の中に存在する事を忘れてはならない。

 

そして「nationalism」が動きを持つその原動力は、基本的には「ひがみ」である。

民族が他の支配からの開放を求め、政治的決断、運命をその民族が決定する事を望むのは民主主義の至高である。

 

だがこうした運動が大衆に広がり、それが何らかの交渉能力や権利を獲得するようになると、そこに発生してくる政策内容は「社会主義的なものになっていくが、これは思想が民主化すると劣化、つまりは個人の事情が大義的思想に侵入するからであり、ここに存在するものは比較による自己認識になる。

 

また民族が統一と独立を実現する権利は「right of national self-determination(民族自決権)として国連憲章にも謳われているが、絶対君主への忠誠心から始まった国家帰属精神が市民革命を経て国民意識にまで拡大したヨーロッパでは確かに理性、自由、民主主義、社会契約と言った普遍的命題を「nationalism」にまで昇華することができたが、それ以外の国家ではアメリカが「力と金」、後進国では先進国に対する劣等感、屈辱感、不平等感が「nationalism」の核になっている。

 

ここに中国や韓国による日本への「nationalism」の高まりは、基本的に欧米絶対主義、欧米崇拝主義の反動とも言えるのであり、その日本の「nationalism」は実は「natio」とも「gens」とも付かぬ中を各々が解釈した「nationalism」で突き進む事から「個人ナショナリズム」となっているのであり、これは基本的に天皇制と言う立憲君主制度の長い歴史の中で、国民が国家や領土の概念の責任を持っていないからである。

 

更に中国を見れば解るように、今日国際社会で単一民族が国家を形成している国家など有り得ない状態の中、下手に民族意識を煽ってしまえば国家が分裂する危機を孕んでくる事から、現在の「nationalism」はラテン語原初の「natio」と「gens」を分離する方向へと動いている。

これが「ethnicity(エスニシティ)と言う考え方で、予め国家が多種の文化で構成されている事を認識した上で、問題に対する共同意識を構成しようと言う方向性である。

 

しかし「ethnicity」の語源は本来マイノリティー、少数連合を指している。

国家とはあらゆるマイノリティの集積であり、大きなものも基本的にはマイノリティで有り、この中で言葉も含む圧力や暴力によって大きなものが小さなマイノリティを征した「ethniicity」は「ethnicity」とはならず、あちこちで適当な意見が外に向かって出ていくことになる。

 

「nationalism」は「他」を攻撃する道具では無い。

 

「異端では有っても他を認める自」である事から、この原則は多数決もまた然り。

 

国の外に対しても内に対しても自分をどう調和させるか、それが「nationalism」と言うものではないかと思う。