氷の張った湖の先に目的地がある時、例えばその氷の厚さによって、体重57kgの人と80kgの人では目的地に達する方法の選択は異なる。
氷が60kgまでなら耐えられるが、それ以上の重みが加わると割れる場合、体重57kgの人はその氷の上を渡って、早く目的地に到達する事が最善の選択なるが、体重が80kgを超える人の場合、氷の上を渡らずに湖の周囲を迂回し目的地に到達する方策が最善となる。
だが現実には湖の氷の厚さはその縁に立っていたのでは解らず、従って体重何kgまでの人が安全に渡れるかは解らないので、もし時間的余裕が有るなら、湖の縁を迂回する事が最善の方策となるが、人間は中々これができない。
「もしかしたら大丈夫かも知れない」と思うからで、これは常に人間の状態と言うものが「追われている」状態にあるからで、これでも普通な訳だから、更に追われた状態の者がどう言う選択をするかと言うと、薄氷の上を体重80kgの人をして「もしかしたら行けるかも知れない」と渡らしめるのである。
そして人間が追われるのは何故か・・・。
それは自他を含めて「約束」をするからである。
中世以降のヨーロッパ社会が「自由」を「契約が存在していない状態」とした事は言い得て妙だった。
約束や契約は未来に措ける自分の拘束で有り、これが歴史年代が古ければその未来は現在からそう遠く離れていないが、現代社会の未来は現在からの乖離が大きく、遥か先の未来までも自分を縛ってしまっている。
基本的に存在すると言う事は、そこに安定を求めることから、最終的には量的誤差は有っても正負を含めて何らかの蓄積が生じる。
つまり若い時には体重57kgだった者が今は80kgになっていて、しかもその事を忘れている場合が多い。
また怠惰は約束を集めているに等しく、完全に怠惰から逃れられる人間はいない。
為に若い頃は渡れた事を思い、薄氷の上でも追われていればついつい「何とかなるかも知れない」と思うのであり、若ければ例え氷が割れても這い上がれるが、重く量を増した体では這い上がることもできずに溺れてしまう事になるのである。
問題の解決は実はこのように「環境」と「自身の「状況」に有る。
従って問題解決の結果が有るとしても、そこへ辿り着く方策は厳密には個人々々によって異なり、これは国家政策に措ても同じである。
周囲の状況、国際情勢、そして自身の有り様によって最善の選択はその時、その人によって異なるが、冒頭に出てきたように「氷の厚み」は解らず、自身が追われていればその体重の事すらも省みることがない。
それゆえ国家政策に措ける最も最善な策とは湖を迂回する道を辿る事になる訳で、もしこれを強行に湖を渡るとするなら、若さ、つまり体力が有る事、自身の体重が軽い事、未来に措ける約束の少ない事が条件になる。
多くの約束を持ち、後生大事に怠惰と金貨を抱えて薄氷の上は渡れない。
約束と金貨、怠惰を捨てて身軽にならなければ、氷の上を歩けない。
日本は今、個人も政府も追われて薄氷の湖の前に立っている・・・。
薄氷の上を歩くか、迂回するかはその当事者自身が決めねばならず、この判断を民衆や他者に求め、間違っていたら他者に責を問うは、自身が他の支配に在ったと同義である。