2020/06/16 07:02



今から6年前、2014年2月5日・・・。

現代クラッシック界で一時代を築いた全聾(ぜんろう・聴力を全く失った状態)の作曲家「佐村河内 守」(さむらごうち・まもる・50歳)氏に付いて、その作曲過程はおろか全聾と言う申告までも「新垣 隆」(にいがき・たかし・43歳)講師の記者会見により否定、虚構である事があばかれ

 

これに対してテレビ朝日系列の昼のニュース番組「ワイド・スクランブル」中で、作詞家の「なかにし・礼」(なかにし・れい・本名中西禮三・なかにし・れいぞう)氏が作品を含めて全否定していたが、なかにし氏の精神性は非常に浅いものと言わざるを得ない。

 

元々「服部良一」氏(はっとり・りょういち・1907年-1993年・作曲家・故人)が言っていたように、戦後の作曲家、作詞家は海外の音楽情報に接する機会が有るだけでヒット曲を飛ばす事が出来た。

 

そこに有るものは人が知らない海外の音楽を、人より先に知る環境に有っただけだと言う話に鑑みるなら、なかにし氏はまさにその流れの中にあり、幼少期はともかくさしたる苦労や失敗も無く人生を送った感が有る。

 

その氏が佐村河内氏の作品までも、全く価値が無いと発言した事は、同氏が作品の精神性を問う中で、作品とは何かと言う深い考えを欠いているように思う。

即ち両親が望まぬ子は価値が無いのかこれ如何、作られた作品に精神性を問うなら「作品は誰の物か」を考える必要が有る。

 

私は常々心がけている事が有り、それは「作られた物に人間性を問わず、自身の人間性をして物を売らず」と言う事だった。

を作る者としてその作られた物の良し悪しが全てであり、そこで自身の人間性や言動で売れた物こそ、物としての価値が無いと思っている。

 

私は私と言う人を売っているのではなく、物を売っているゆえ、私など板切れでもゴミでも構わない、作られた物で評価される事を望む。

従って例えどんな悪いいきさつが有っても、その楽曲が素晴らしければ私はその楽曲を評価するが、こうした事は順風満帆で生涯を送ってきたなかにし氏くらいでは理解しようも無いだろう・・・・。

 

さて、この傲慢な文章だが、何かおかしいとは思わないだろうか・・・。

 

実は私は佐村河内氏の楽曲など聴いたことも無ければ会った事も無く、なかにし氏にも会った事はない。

そして恐らくなかにし氏も佐村河内氏や新垣講師に会った事は無いだろうし、私の事も知らないだろう。

 

でもこうして文章にしてみると私と佐村河内氏、新垣講師、なかにし氏が簡単に繋がって、しかも私は自身が悪くないように書き、なかにし氏を批判している訳であり、聴いた事も無い楽曲称賛してもいる訳である。

 

この文章を読んだ人々はなかにし氏擁護論と私の賛同論に分かれ、広がっていく。

これがインターネットの「負」の部分なのであり、今日はこのインターネットの負の部分について書いてみようと思う。

 

なかにし氏は作詞家、小説家であり、また佐村河内氏や新垣氏に会ったことも無く、本来はコメンテーターなど本業でもないのにテレビで安易な発言をし、佐村河内氏のみならず新垣氏まで切って棄てたが、なかにし氏は彼等の一体何を知っていて発言しているかと言えば、伝え聞いた報道以外何も知らない。

 

そしてその何も知らないなかにし氏を、これまたなかにし氏の何を知っているかと言えば何も知らない私が批判し、皆がそれぞれ本業ではないところで、全く知りもしない人の事を断罪しているのである。

考えて見れば馬鹿々々しい話だが、インターネットの情報とはこうした情報が99%を占め、本当に必要な情報は1%もないものなのである。


※ 本文は2014年2月6日、Yahooブログに掲載した記事の一部の加筆し、再掲載しています。