2020/10/09 18:13



書は體を現し、體は心を映す。
 
現在ではパソコンのワードが主流になってしまったが、文字と言うのは文字そのものが最も大きな意味を持つ一方、それが書かれた状況と言うものも書体の端々に現れ、それは心情のみならず書いている人間の環境をも現し、この事からも心と体は一つのものと観ることが出来る。
 
巻紙で書をしたためる時、最後の方に行くに従って巻きが細くなり、この事を「紙が痩せる」と言うが、使って行って減らずに逆に太ったりするのは人間とゴミだけで、大概のものは時間経過と共に少なくなるか、摩滅していく事から、巻紙も痩せてくると文字が書き辛くなってくる。
 
筆で書をしたためる時、机の上で書かれた文字と、机を使わずに書いた文字は同じ人でも違いが有り、これはその机の高さによっても違いが生じる。
 
だから書かれた文字によってその人が家で自分の机で書いているのか、或いはどこか旅に出ていて、普段使っている机では無いところで書いているのかが見えてくるのであり、これが机を使わず片膝を立て、そこに左手を固定し、巻き紙を少しづつ回しながら文字を書いている場合は、明確に違いが出てくる。
 
また電気の無い時代、文字は蝋燭との位置関係からも違いが生じ、蝋燭を左にかざすと文字は少し荒れ、右にかざした文字は狂いが少ない。
これは文字の書き始め、筆を入れる時の迷いの方が、筆を離す時の迷いよりも大きく影響するからである。
 
一本の蝋燭をかざし、片膝を立て、そこに文字を書く状況と言うものが、如何なる状況かを思えば、その書を受け取った者が感じる危機感、或いは書いた人の状況というものが、時に文字の内容以上に物事を伝える事になる。
 
だが一方、何時も机を使わずに片膝を使って文字を書いている人は、それが常となっている為、相手に自分の状況が覚られ難く、これをして言うなら、何時も机で書いている人の文字は緊急時には荒れる事になり、机が使えない状況の文字は緊急時も平常時も同じ文字になる。
 
つまり何時も自分の体以外の道具を多用してる人の文字は美しいが弱く、何時も自分の体だけに近い状況の人の文字は強い。
 
また一般的に片膝を立て、左手で巻紙を送りながら、書をしたためるのは大変難しいように思うかも知れないが、実はこれが巻紙の中心が常に見えていて文字が傾斜していく事が無く、目に対して平行な位置で文字が書ける為、意外に書き易い。
 
ただ立てている膝が安定していないと文字は簡単に乱れ、膝が綺麗に固定されると言う事は、体に不調が少なく、精神が乱れていない状況をして初めて成立する話でも有る。
これと同じ状況はみかん箱でも出てきて、昭和40年代くらいまで、通常袋売りの「みかん」が少なく、大概は箱売りされていたものだったが、この箱が木の箱だった。
まだまだ貧しい暮らしだった地方の田舎では子供に机を与えられる親は少なく、兄弟姉妹が師走に買ったみかん箱を机代わりに勉強している状況が有ったが、みかん箱をひっくり返した裏は平面ではなく凹凸だらけで、ここで鉛筆に力を入れて文字を書こうものなら容易にノートに穴が開く事になる。
 
みかん箱を机代わりにしていた子供達は、ノートの紙の反発力を利用しながら文字を書くことを体で憶えて行ったのであり、まさに道具の無い状況が人を、その強さを育てていたと言える。
 
そしてこうして文字を書く事でも「状況の尊重」と言う事が出てくる。
家が豊かで文机で書をしたためることが出来る人は、その状況を使わないと「他」に対して傲慢な事になり、ましてや相手が机が使えない事に配慮し自分も机を使わないなどは、相手の状況を哀れんでいる事になり、この哀れみの情が一番人を傷つける。
 
だから何時も片膝で文字を書くことが習慣ならば良いが、文机が有り高価な筆が使える者は、その机で高価な筆を使って美しい文字を書かねばならず、これは富める者の使命でもある。
机を使わず、わざと先の乱れた筆を使うことは虚飾となるのであり、これを恐れるなら普段から在野に有って自身を鍛える事が必要になる。
ちなみに巻紙が痩せて筆の幅に足りなくなってきた時は、膝先と手の平に乗った紙の反発力をして筆を使うのであり、最後尾は文字が書けない。
この事から昔の書簡は最後の余白が出るのであり、この余白が少ない者は文章、文字は上手いが優雅さに欠け、余白の大きな書簡は時間や暮らしに余裕が有る事になる。
 
差し迫って左にしか蝋燭がかざせなかった文字、余白が全く無い書はその人の状況が困窮しているか、或いは緊急時を現していて、これを読む者はその書の内容を読まずして相手の状況を知る事になる。
 
「状況の尊重」とは無駄な事をしない、自分の状況を偽らない事を言い、この事をして天意を乱さない事になるのかも知れないと私は思っている。
また、緊急時にこそ何事も無かったかのように普通である事が、最も大きな力で有るとも信じているかも知れない。
 
文字は誤ったら線を引き、そして正しい文字を加えれば良い。
 
紙を棄てなかった事、そして自らの誤りを自らの手によって正した事は褒められるべきことで、私はこうした書簡にこそ、その人の「状況に対する尊重」、誠実を感じる・・・・。