2020/10/16 22:53



一時期東京の商社に勤務していた私は、母が病との事から故郷に帰る事を決め、そして電車を乗り継ぎながら家を目指したが、金沢の駅に着いたのは夜の8時過ぎ、能登行きの最終に乗り込んだ時は既に9時を過ぎていた。
 
車内は夏だった事もあり比較的混んでいたが、その中で座れる席を探しながら歩いていた私は、少し前の方に4人向かい合わせの席に一人しか座っていない様子のところを見つけ、そこに辿り着くと荷物棚に荷物を乗せたが、その時初めてこのボックスに何故一人しか座っていなかったかを知る事になる。
 
その4人席で一人だけ座っていたのは眉毛が既に刺青のヤクザ、しかもどうみても下っ端のチンピラ風の男だったのである。
一瞬「しまった」と思ったが、しかしこの場面で露骨に立ち去ると逆にインネンを付けられるかも知れない、そう思った私は彼に「同席しても宜しいですか」と尋ねたが、彼は「ああ・・・」と答えた。
 
私は席に付くと、彼に目を合わせないように途中で買った本、「孔子」を読み始めたが、暫くしてその向かいに座っている男が私に話しかけてきた。
 
「あんた、いい度胸だな、俺を見ても顔色一つ変えなかった」
「仕事は何をしてるんだ」
男は、少しはにかんだように私を見て、煙草をふかした。
 
「○○に務めていましたが、辞めて故郷に帰るところです」
「そうか、○○に務めてたのならこの世の地獄も見たってところか、道理で普通とは違うと思った」
「私は普通ではないですか」
「ああ、大体普通は俺を見たら避けて行く、でもあんたは全く表情が変わらなかった」
 
「命を落とすときは逃げても逃げなくても同じですからね・・・」
「なるほどな・・・」
「故郷に帰って何をするんだ」
「小さくても自分の事業を起こそうかと思っています」
「そうか、もし手形の不渡りでも有ったら、持ってくれば何とかするぞ」
「まだ、何も決まっていないので先の事は解りませんが、その時は宜しくお願いします」
 
男は私に気を許したのか段々と言葉が多くなり、私は結局彼に逆らわないようにしていただけなのだが、やがて上機嫌になった男はガムをくれ、兄貴から貰ったと言う時計や、しまいには背中の刺青まで見せてくれ、私はそれを「凄いですね」「痛くは無かったですか」と言いながら見せてもらっていた。
 
金沢から私の故郷までは10を越える駅が有る。
男は金沢から6つ目くらいの駅で降りていったが、「今付き合っている女をクラブで働かせて金を作り、俺もいつかは自分の組を持つ、あんたはきっと社長になれる、俺にはわかる」
降りる駅が近付いてきたのか席を立つ男は私にそう言った。
 
「あんた、名前は・・・」
「○○だ、あんたは?」
「○○です。お互い生きていて、どこかで出会ったら今度は一緒に酒でも呑みましょう」
「ああ、そん時はあんたは社長、俺は組長だな」
 
彼は笑って手を上げると乗降口へと去って行った。
「死ぬなよ・・・」
私は彼の後姿を目で追いながら、そう思っていた。

彼がいなくなったおかげで私は少し緊張が解けたが、同時に4人席に自分一人になり、辺りを見回すといつの間にかその一両の列車に乗っている客は自分を含めても10人程になっていた。
窓越しの闇の中に小さな灯りがぽつん、ぽつんと点在し、それらがゆっくり過ぎ去っていく景色を眺めながら、私は妙に心がざわめいていた。
 
「あの男と知り合いですか・・・」
そんな私のざわめきを断ち切ったのはこの列車の車掌だった。
「いえ、たまたま同席しただけですが・・・」
 
そう答える私に、やはりさっきの男や私と同年代だろうか、26、7歳くらいの若い車掌は、「何かトラブルになっていないかと心配していました」と申し訳なさそうに頷くと、通路を挟んだ向かいの席に座った。
 
「あの男は私の後輩で、こうして時々この電車に乗るのですが、もし不快な事が有ったとしたら許してやってください」
「いえ、とんでもない、彼は何も不快な事はしていません」
私は車掌にそう言うと、車掌は「あれは悪い奴ではないんですが、むしろ人が良すぎてあんな事になってしまいました」
どうか、許してやってください」
そう言って、また帽子を被り、席を立って行った・・・。

金沢の最終便は家の近くの駅までは運行していない。
途中の駅が終点だったが、ここから私の家までは50km以上の距離が有り、すでに11時過ぎになっていてはバスもタクシーもない。 
私は仕方なく、この50kmの道のりを荷物を担いで歩く事にしたが、満天の夜空で、星の煌きがまるで全て自分の為に輝いているかのように思えた。
 
そして私はそうした星の煌きに力を得て、夜道を黙々と歩き始めたが、10kmほど歩いただろうか、一台の車が私の前に停まり、中から運転手が私の町の一つ手前の町まで行くんだが、乗って行かないかと声をかけてくれた。
 
「こんな夜更けに荷物を持って歩いているなど、もしかしたら犯罪者かと思ったが、顔を見ればそうは見えなかった、何故こんな時間に歩いている」
運転手は私に尋ね、私はこれまでの事情を説明したが、「あんた、50kmも夜中に歩くつもりだったのか」と呆れたように私を見て、「これはとんだ豪傑を乗せたものだ」
「この町にもあんたみたいな人がいたんだな・・・」と言うと、名詞をくれて自宅まで送ってくれたのだった。
 
彼は隣町の役場の職員だった事から、翌々日私は菓子箱を持ってお礼に行ったが、そこでも「もし困った事が有ったらいつでも相談してくれ」と彼は笑っていた。
 
今でも夜、星を眺めているとあの日の事が鮮明に蘇って来る。
私は夜道を歩きながら、今この瞬間、私に出来ないことは何一つ無い、そんな気持ちに包まれていた。
根拠も無く、でも世界の全てが確かに自分に向かって動いている、そんな事が信じられた時だった。
 
皆元気でやっているだろうか・・・。
 
私はあなた方の期待にはまだ応えられていないが、それでもあの日の星の煌きは今も自身の心に内に、時々弱くなりながらも輝き続けている・・・。