2020/11/08 06:29



例えば同じ大きさの赤い丸と、白の四角形がランダムに点在する画面中で、赤い四角形が一つだけ入った場合、この赤い四角形を見つける為に要する時間は、ランダムに入っている赤い丸と白い四角形の数によって決まってくる。

 

ランダムに入っている図形の数が多くなればなるほど、赤い四角形を見つけるまでに時間がかかるのである。

 

だが同様の図形に一つだけ白い三角形が入ったとしようか、この場合はランダムに入っている図形の数がどれだけ増えても、三角形を見つける為に要する時間の変化は無い。

 

この事から脳の視覚情報処理システムは丸と四角と言う図形の認識、或いは赤や白と言う色の認識よりも、これらとは異なる角度の認識にまず優先性を持っている、角度の認識により大きなパターン記憶を持っていると考えられる。

 

二種の図形の中で、これらの図形とは異なる斜線が一辺出てきただけで「これは違う」と認識する。

 

しかしまったく同じ図形、丸にしようか・・・

同じ大きさの白い丸と赤い丸が幾つも点在し、それらの内、赤い丸が上に向かって移動し、白い丸は下に向かって移動しているとすると、この中に一つだけ下に向かって動く赤い丸を入れた場合、この一つだけ下に向かって移動する赤い丸を見つけるまでの時間は、ランダムに入っている規則的な動きの図形の数に比例しない。

 

規則的な動きをする図形の数に関係なく同じなのであり、だがしかし、三角形を見つける時間よりは多くの時間がかかって一定なのであり、この事から人間の視覚情報処理形態には少なくとも「あわて者」と、「落ち着いた者」が状況に応じて出てくる傾向が解るが、ではこの「あわて者」と「落ち着いた者」に順位が存在するのかと言えば、そうではない。

 

状況を視覚が記憶に取り込んだ瞬間、その情報が「あわて者」で良いか、「落ち着いた者」かを判断するには、瞬間ごとに記憶情報の海が全て動かねば判断できず、人間の脳は常時それほど活性化してはいない。

 

ここにはパターン化された情報処理形式が存在し、大概の事はこのパターン化された情報処理群が動き、「あわて者」で良い場合と、「落ち着いた者」が必要となるかの判断になるが、これは順位性ではない。

 

まず最初に「あわて者」のパターンが動き、次に「落ち着いた者」が動く、次には別のパターンが動き、更に次のパターンと言う具合で、その情報の質が判断された時点で、パターン化テストが終了する形式を我々は考え易いが、実は違う。

 

これらは並列同時処理により、優先性と、優位性が組み合わさっている。

 

速度で判断されるものと、重さで判断される仕組みが同時に動き、この中にも数え切れないパターン化(モジュール)が存在し、しかもこれらは独立的な要素を持っていて、出先機関的なモジュールを局在させている。

 

ちょうど日本が在り、各国に大使館が有るのと同じような仕組みと考えて良い。

 

錯覚に例を求めるなら、「主観的輪郭」の代表である点描などで、外側の輪郭に近い部分の点を荒くまばらにしても、人間はここに輪郭を想定して造形を捉えるが、一方そこに実際の線がない事も認識している。

 

葛飾北斎のように鶏の絵を何十枚と模写していると、最後には白紙の上に鶏の絵が見えるようになってくるが、これはモジュールを多用する事によって、そのモジュールが太くなったと言う事を意味するが、しかし遠いところではそこに線がない事もまた解っている。

 

これが並列同時情報処理の在り様で、矛盾した事象でも同時に処理され、そのどちらも肯定されている現象を生むが、時間系列の遠近と、重要性の遠近によって矛盾する現象でも、モジュール中に過去に存在したものならば、全て矛盾とは理解しないのであり、これは各モジュールが独立性を持っている事の証かも知れない。

 

こうした意味で我々が考える矛盾や整合性、合理性は視覚の持つ範囲よりもかなり狭い思想的なものである事が解るが、もう一つ言うなら、運動に措けるモジュールと認識では位置や運動、テクスチャーが検知された時、それが全体のどの位置に存在しているか、動く物体がその後どうなるかが予測され、テクスチャーでは構造や材質の予測が為される。

 

草野球で打者が打ったホームランが隣接する住宅の窓に向かっているとき、視覚は次の瞬間本当は遠くて聞こえないはずの窓が割れる音、「ガシャーン」と言う音を用意するのであり、その結果が少し首をすくめる動作に繋がっていく。

 

脳の聴覚部位に駐在している視覚の大使館の仕業であり、視覚はまた運動神経部位にも大使館を置いていて、この動きになるのである。

 

ただこの場合「主観的輪郭」とは異なり、その音が実は聞こえ無いはずの音で有ることの認識はかなり遠くなり、実際に聞こえるはずの無い音のウェートが大きくなるのは、「重要性」の問題である。

 

何かが破損する、或いはそれが発生する恐れが有る時は、危険回避のモジュールが働き、これに拠って「実際は聞こえていない」と言う事実は遠ざけられる。

 

そして基本的に人間の生体モジュールは感情を持たない。

交通事故に遭遇したとき、生体維持のモジュールは脳を活性化させ、まるでスローモーションのように事象を見せるが、この瞬間に恐怖心や悲しみなどの感情は無い。

 

危機に際して感情が邪魔で有ることから、一時的に遮蔽されるのである。

 

しかし一方幽霊などを見た時の人間は恐怖心を抱くが、恐怖の正体は交通事故の例でも解るように、必ずしも危機の連動に根拠は求められない。

つまり「恐怖」は本質的生体の危機では無い、前段階の社会的モジュールだと言う事である。

 

人類が長い歴史の中で持った死生観の絶対性、こうした社会的なものもまた脳がモジュールとして記憶の連続に加えている可能性が示唆されるものであり、この意味では恐怖も然ることながら、我々が持つ喜怒哀楽の感情、「心」なども極めて社会的なものと言え、最大の危機に瀕した時の脳と最もリラックスした時の脳の動きは近似値である。

 

つまり、最大の危機と最もリラックスしている状態は大体同じだと言う事である。

 

人間の意識の仕組みはランダムに色んな情報が取り込まれ、流れ、それを膨大な数のモジュールがそれぞれに認識し評価し、感情が加えられ記憶される形になっている。

 

一人の人間の中に膨大な数のそれぞれの立場の自分がいて、事象をそれぞれに観て部分的には繋がっている、そう言うものと考えられている。