2020/11/10 18:33



500万円を持っている人が6人、200万円を持っている人が2人、10万円しか無い人が1人、1万円札一枚しか持っていない人が1人の、合計10人が会派を作ろうとした時、会費の設定額で500万の人は5万円でも構わないと主張し、200万の人は2万円でも良いと言うが、これでも10万円しか持っていない人の資産消失額は会費だけで20%を超え、1万円しか持っていない人はそれにすら達する事ができない。

 

この場合会費が5万円なら、現実的には10万円と1万円の人は会派に参加できないが、絶対参加しなければならない会派、すなわち国家の場合、予め会費を設ける時は1万円の人を基準に会費を設けなければならなくなる。

 

つまり1万円の人が払える会費と言う事になるが、そこで決まった金額が1000円だったとしたら、10人が1000円を出しても合計で1万円にしかならず、これではみんなで吉野家へ行って終わりになる。

 

それで考えられたのが所有金額の消失割合に拠る均等性で、全員が資産の中から同じ割合で金額を拠出すようにすればどうだと言うことになって行くが、基本的にこの考え方は個人の努力すらも予め皆同じで有ると言うところから出発していて、努力して500万円持っている人も、ギャンブルばかりで何の努力もしていない人も、その部分はさて置き、と言う話である。

 

このように我々が日々概念する平等と言うものの正体は、集合で言うなら幾つもの円が交じり合う僅かな重複箇所を探すところから始まり、つまりは皆が平等で有る条件を探す事なのであり、その概念は常に方向性や限定された条件を持っている。

 

努力を平等のテーマに掲げるなら、努力して500万円を持った人の負担は重くなり、ギャンブルばかりで遊んでいて1万円しかない人は優遇されている事になるが、現実の資産と会派の設定が絶対的なものなら、この範囲では資産割拠出は平等となる。


そしてこの平等を破壊するのはいたって簡単な事で、事情に応じた例外を作ればいとも容易く崩壊し混乱に向かう。

 

会派結成の会費で言えば、資産割拠出1%なら500万円の人が5万円、1万円の人は100円で有るなら、その差は500倍であり、ここで宴席に5万円の人には鯛のおかしらが付き、100円の人にはアジの干物だった場合、アジの干物の人はその一瞬から不平等を感じる事になる。

 

またそうではなくても例えば100円しか拠出しない人が年長で、5万円拠出した人が若い場合、座る席順だけでも不平等と感じる事になるかも知れない。

 

だがここでの平等の本質は、皆が決まった割合で資産からお金を出すと言う事のみであり、その他に措ける平等は予め保障されてはいなかった。

これを拡大解釈したり、感情を交えると集合して重なり合った円の重複部分は一瞬にして吹っ飛んでしまう。

 

5万円拠出した人は自分は5万円も出しているのだから、少しは恩恵が有るのは当たり前だと考え、100円しか出していない人が下座に座っているのは、拠出金額の格差かと考えた時、これに対して特例を設けた瞬間から各個人の事情や感情、人間関係が噴出し、円の重なりはなくなってしまうのである。

 

つまり平等の概念は目的の為に存在する一つの手続きと言え、例外を設けない事に拠って担保され、ここに個人が例外を作らない努力が有って継続されるものなのであり、一方権利は他の目的の為の平等を包括したものである。

 

現存の会派とは別の会派の平等をも含んだものが権利の意識であり、そこに感情や他の不満を乗積させると、権利の暴走が始まり、重なり合っていた円の重複部分をその権利の主張が破壊して行く。

 

僻(ひがみ)や感情のしこり、或いは傲慢や虚栄、名誉欲に権力欲、平等の敵は不平等ではなく、こうしたところに存在し、人はまたこうした事から中々逃れられない。

平等と言うものは幻想なのである。

 

500万円を持っている人の集まりに、1万円しか持っていない人がどうしても参加しなければならない時、できる事はそこでの最低条件をクリアするのが限界で有り、大きな事を言った時は500万円の借金を背負う場合も出てくるかも知れない。