2020/11/24 20:50



禅宗の一派「曹洞宗」寺院の一部では住職が交代すると、それに伴って既存幹部並びに、場合によっては関係者全てが総入れ替えされるしきたりが残っている。

 

如何にも潔い(いさぎよい)在り様と言えるが、一方慣れない者がやってきて全てを仕切る事は難しく、その意味では補佐すら残さない在り様は若干の冷徹さ、人間と言うものに対する温度の低さを感じる事になる。

 

しかし物事を学ぶ時は、その困難な部分を身を以て学ばなければいつまで経っても一人立ちできない側面も有り、おそらくそうした意味からのしきたりと言えそうだが、もう一つこれは宗教的な意味を遥かに遡る遠いしきたりの在り様がそこから見えてくる。

 

古代中国の周王朝(紀元前1046年ー紀元前771年)で発生し、その後も幾多の人々に拠って改定、附則が付け加えられてきた「易経」、この始まりの姿は光によって千変万化するトカゲの在り様から来ているとされているが、こうした周の易経、「周易」から影響を受けた「孫武」、彼が記した兵法「孫子」に鑑みるに、現在も残る曹洞宗のしきたりは以外に古い歴史上の法則なのかも知れない可能性を持つ。

 

「昨日大勝した策は今日には通用しない」

 

「孫武」は自著「孫子」の中でそう記しているが、これは「無常」の事であり、僅かでも何かが携わったり時が経過すると、先は千変万化する事を示していて、基本はトカゲの在り様、今で言うなら不確定性理論と同義かも知れない。

 

書としての孫子は「孫武」が記した事から「孫武」独特のものと考え易いが、実は「孫子」は周易の発展系と孫武自身の経験上の知恵から成り立っていて、これを後漢時代の魏王「曹操」が編纂したものであり、この意味では1000年以上もかけて幾多の人間の英知と経験が集積された「人の現実」に関する書とも言える。

 

こうした背景を考えて孫子の「昨日大勝した策は今日には通用しない」を考えると、周易上の「無常」、「昨日の道は今日には危うい」共々、ある種自然の摂理とも言えるもので、ここで誤解してはならないのは日本人が考える「無常」と、周易や孫子の「無常」は同じものではないと言う事で、日本に伝播され醸成された「無常」は受動性無常であり、周易や孫子の「無常」は能動性無常である。

 

受動性無常は「それをどう考えるか」であり、能動性無常は「それゆえどうするか」と言う事だが、これは同じにして全く逆の性質のものと言える。

 

元々周易の無常は、その絶対的な存在に対する人の力の無さも包括していたが、無常で有るが故にその先を組み立てる側面を大きくしたもので、こうした陽の部分をフルに活かしたのが孫子で、一方仏教を通して日本に入ってきた無常は、無常の陰の部分を大きくしたものである。

 

すなわち「虚しさ」である。

 

だが「無常」の本質は唯の変化で有り、千変万化する先の在り様そのものを指し、これを人間が扱うと「虚」と「実」は入り乱れ、観る者の状況に拠って天の恩恵にもなれば最大の禍にもなり得る。

更に言うなら人間は今の状況が良ければ今で有り続ける事を望み、今の状況が苦しければ先の変化を望むが、これはどちらも正しくは無い。

 

いわんや人の先に千変万化が在るのであり、これに応じて自身も千変万化して行かなければ常に現実に経ち遅れる事になる。

 

曹洞宗の無常はおそらく今の私のような考え方はしないだろうが、佳き事はそれを形式としてでも現在に残している点にあり、「昨日通った道は今日には危うい」「昨日の大勝は今日には通じない」は我々が生きていく中でも常に忘れてはならない事である。

 

我々は良い悪いはともかく、何時も何某からの命題を心に抱えて生きている。

例えば些細な事でも問題を抱えていれば、その問題に対して何とかしようと考え、そこには自然にそうした状況が求める人間が集まる、いや集める。

 

今が幸せな者ならその状況に応じた人間を自然に集めている。

そして先に行ってその状況が変化して行った時、人の心はこうした変化に追い付いて行かない。

 

不運な状況を脱した者は、新たな状況に応じた人間を集めるようになり、その経緯の中でそれまで周囲に存在していた人間達と少しずつ意識のすれ違いを起こして行き、これは幸福な状態から反対側へ変化して行く者も同じである。

 

今日も明日も同じで有り続ける人間は存在しない。

トカゲの表皮のようにそれは変化し続け、同じような光り方をしたとしても、もう二度と完全に同じ光りは現れない。

 

にも拘らず人間は心だけが今日も明日も同じだと信じ、或いはこの思いは永遠だとも考える時も有るだろうが、こうした思いこそが他人や自身を縛り、自他共に人の心を留め、いずれ苦しむ時を迎える事になる。

 

世が「無常」なら今日も明日もこの瞬間も別れの連続で有り、出会いの連続である。

今日隣に在った者は明日にはおらず、明日隣に在った者はその次の日も同じ所に在ってはならず、在り得ない。

 

先は常に千変万化である。

人の心も事象も全て移り変わり、これを哀しむなかれ、先は「無常」と言う希望なのである。

人を留めてはならず、自分も留まっていてはならない・・・。


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