2020/12/18 17:43



1997年、「the brilliant green」のリードボーカルとしてメジャーデビューした、後の「Tommy february」「Tommy heavenly」のボーカリスト「川瀬智子」(現在は奥田智子)はこう言っていた。

 

「口パクでやらせてくれたら最高のパフォーマンスになるんだけどね、まっ、それが許されればだけど・・・」

 

ファッションとパフォーマンスに指向が存在していた彼女らしい言葉だが、実際にも「the brilliant green」が生出演したテレビ番組では明確に口パクでのパフォーマンスが存在し、彼女はわざと音源と口の動きをずらしていたり、「Tommy february」のミュージックビデオでは、自身が歌っている画像を流しながら、その途中でサボっている場面を織り込んでもいる。

 

昨今偽装、偽装と喧しい世の中だが、アーティストのコンサートでも本人が歌っていなくて音源が別に存在した場合、コンサートに参加したファンは「裏切られた」と思ってしまう事になるかも知れないが、飛び散る汗や参加者が一体となる感動は結構な事としても、しかし下手な歌を聴いているよりは録音で綺麗な音源を聞きながら、そしてパフォーマンスに集中できる事の良さ、完成度の高さは私も肯定できるものだった。

 

「良ければそれが最高・・・」

この削ぎ落とされた感性は「生で歌う」と言う事を中心に、両極端に分かれる拘りを軽く流して行くような余裕が有る。

本物、偽物と言う定義が一種くだらないもののようにも見えてくるのである。

 

 奥田俊作と松井亮は当時既に京都のバンドで歌っていた川瀬智子に一目惚れする。

「俺達の楽曲を歌う者は彼女しかいない・・・」

 

奥田等は頻繁に彼女が歌っている場へ足を運び、やがて「the brilliant green」を結成、奥田の作る軽くてメロディアスな楽曲は、川瀬智子の声を通して世紀末の世に切ない感動を呼び起こして行った。

 

我々はよく本物、偽者と言う区別をするが、実は本物は存在しない。

与えられた事象を本人が本物と思っているだけであり、発生する事象は虚でも実でもなく、唯の存在でしかない。

  

「心」や「誠実」が存在する時代に人々は「心」を求めない。

現代社会のように「心」や「誠実」の無い時代だからこそ、それが求められ、それに人々は縛れられ小さな虚に向かって行き、与える者もまたこの小さな虚を恐れ、やがて全てが狂って行く。

 

川瀬智子が複雑な事を考えていたかと言えばさに有らず、奥田俊作がコンサートでコテコテなファン関係を求めていたかと言えば、これも違う。

楽曲と言う大きな視点と、ファッション、パフォーマンスなどが総合的に垣根を越えていたからこそ、その途中が省略され、感性の一致点を見たと言えるのではないか・・・。

 

こうして全くこだわりの無い彼らが作った歌を聴き、私も含めて当時の人々は自身の「心」を見ていた。

 

「心」を求める者は「心」に遠く、これを求めない者に「心」は近い。

「思う者は遠く、思わない者は近い」とはこうした意味である。

 

少し早いがクリスマスに似合いそうな彼らの楽曲を、プレゼントさせて頂いた。