2020/12/30 05:56



古来日本では、罪と言うものは本人に内在するものと言うより、「穢れ」と言うものがそれを起こさせると考えられ、しかもこの穢れはまた新たな罪をを呼び、国家に降りかかる様々な災害は、こうした穢れから来る神の怒りであると信じられてきた。

そして彼らはこうした穢れから身を遠ざけ、罪を犯さないようにと暮らしていたが、それでも、もしかしたら自分が知らない間に穢れを、罪を犯しているかも知れない、そう思いはじめ、穢れを清める神の存在を求めた。

平安時代にまとめられた「延喜式」(えんぎしき)と言う書物の中には、そうした穢れを祓うに読まれた祝詞が記されているが、この頃の朝廷は年に2回、国の穢れを祓う、「大祓い」の儀式を行って穢れを祓おうとしていたようだ。

その考え方はこうだ・・・。

全ての罪や穢れは、川の神から海の神に送られ、そこで海原を吹く風の神に吹き飛ばされる。
そして海の果ての「根の国」「底の国」の神がそれらを全て消してしまい、人間の国の穢れは清められる・・・。

日本神話には「速佐須良比時」(はやさすらひめ)と言う、日本神話以外の神が登場しているが、この神が「根の国」と日本神話の世界を自由に行き来していて、その名が示すようにさすらいの女神と言うことになろうか、つまり彷徨い歩いている神なのだが、彼女は人々の犯した多くの罪と穢れを持って、あてども無いさすらいの旅をしているのだ。

一つ一つの罪や穢れには、それを清める場所があり、それを総称して「根の国」と呼ぶのかも知れない

が、しかしそれはきっと人間の知恵では、はかり知ることができないものなのだろう

だから日本神話では「根の国」は名前だけしか出てきておらず、こうした国のことは一切書かれていない。

もしかしたら人間が口にするすらはばかられる世界なのかも知れない。

人は生きていく上で、何の穢れも無く存在し得ることが叶わない

いわばものを食べることを天上の神の仕事とするなら、では排泄はどうなるか、これを無視して人は生きられない。

従って「根の国」の神は、こうした人間達が生きていく上で、避けられない穢れの部分を清める役割を負っているのではないだろうか。

我々は神社へ行けば水で手を清め、滝に打たれて、あるいは冷水で禊(みそぎ)をするが、それで穢れは消えるのではない

穢れは水と共に川から海へと流れ、そして「根の国」に流れていく

いわんやこれは自然の摂理としても、地面にしみ込んだ水もまた、やがて地下水となって海に流れていくのと同じで、そして穢れたものは清められ、またの美しい水となって帰って来るのである。

だから「速佐須良比時」のさすらいとはつまり、水の循環を指しているのかも知れない。

そして水はこうして穢れと、美しく純粋なものとを循環している、言うなら「根の国」とそれに関わる神の存在は「自然」そのものであり、森羅万象の理そのものなのではないか、だからこそ、日本神話はその記述に関して、これを侵してはならないとしているのではないだろうか。

 

               「大祓い奏上詞」
「罪という罪はあらじと、速川の瀬に坐す瀬織つひめという神、大海の原に持ち出でなん。かし持ち出で往なば、荒塩の八百道の、八百道の塩の八百会に坐す速開つひめという神、持ちかか呑みてむ。かく気吹き放ちては、根の国、底の国に坐すさすらひめという神、持ちさすらいて失ひてむ」

さて、これが「延喜式」に載る「大祓い」の祝詞だが、今年はコロナウィルスの影響もあり、神社参拝もままならない場合も多くなるかも知れない。

せめて「大祓い奏上文」を読み上げる事で、僅かでも方々の穢れが祓われん事を希望する。

 

唯、言っておくが、大祓いをすれば来年幸運が舞い込むと言う筋合いのものではない。

善きに付け、悪きに付け、「今」と言うのは過去に用意された諸々が、その時を迎える事で有るから、占いやまじないで未来は変わらない。

 

例え未来を知ったとしても、来るべきものは善きも悪しきも避けられないし、避けるべきではない。

大祓いとは、過去に用意されて集められた今の為の諸々に、穢れが掛かって「今」が正しくならない事を防ぐもので有り、「正しい今」とは己に取って善き事ばかりを指すものではない、ひとえに「願い」である事を忘れてはならない・・・。

 

 

2020年、本年も多くの方々にこのサイトが閲覧頂きました。

深く感謝申し上げます。

 

皆さまの2021年が良い1年でございますよう、心より希望致します。

有り難うございました。