2021/01/14 18:52



アクシデント、若しくは災害の質と言うものは何かが完全に根絶される訳では無く、一つが大きくなると他のアクシデントや災害は小さくなり、その大きなアクシデントや災害に注意を取られて防ごうとして行くと、今度はそれまで全く目立た無かったものが突然巨大化して姿を現す。

 

トヨタが発売を始めた直後に感じていた事だが、どうも後ろを走っているとプリウスユーザーの運転は一般的に少しおかしいと言う印象が有った。

この感覚は私だけかと思っていたが、どうやら日本各地で複数の人が同じ事を思っていたようで、何がおかしいかと言うと運転が統合失調、分裂状態なのである。

 

通常人間の目は前後の車の速度、車線からの距離、前後の間隔や、場合に拠っては車窓から見える運転者の表情などから、周囲の車が次に何をしようとしているか、或いは曲がろうとしているのか止まろうとするのかを漠然とでも予測しながら自身の車の速度や車間などを決定しているが、プリウスの場合これがバラバラで、運転者の意思が見えにくいのである。

 

勿論相対的に高齢者が増えていて、しかも高額な車が買えるのは社会的に優遇され資産形成が終わっている高齢者と言う事で、こうした意味でもプリウスユーザーの高齢化が進み、運転に統一性が欠落してくる可能性も有るが、前の車との車間が常に安定せず左へ寄ったり右へ寄ったり、急に加速して見たかと思うと次はいきなり速度が落ちたりと言う傾向が有る。

 

しかもこうした事をユーザーが自分の意思で連続するのは、相当体力や気力が必要になるはずで、どうしても電気に拠る動力とガソリンエンジンに拠る動力のバランス、それに人間とのマッチングが取れていない感じがする。

 

また自動運転システムやブレーキアシスト機構にしても、例えば哺乳類は一般的に成年に達した固体は寝ていながらの排泄を行わず、これは哺乳類全体が獲得した生物社会秩序なのだが、もし「おねしょ」をしても構わないとする現実が現れた時、人間は哺乳類社会が獲得した秩序、システムから外れる事になる。

 

衝突に対する危機回避行動は生物の基本的な本能であり、衝突しそうな場面でそれに対する危機回避行動が必要なくなったとするなら、人間は他の危機回避が必要な場面でも危機回避行動を起さなくなる、またはその回避行動が曖昧、緩慢になる可能性が出てくる。

 

危険だと判断してブレーキを踏むと言う行動は、これでも省略的反射行動だが、それすらも無くしてしまうと、危機回避に対して車に乗っている間は反射行動の必要が無くなり、この事が他の事象に対しても現実と危機回避行動のタイムラグや分離に繋がる可能性が有り、これがやがて人間のアクシデントや災害に対する危機回避行動や人間関係、コミュニケーションにまで影響を及ぼす可能性が出てくる。

 

こうした人間工学的な検証が為されないまま、単に便利だと言うだけで安易に自動運転システムに依存する事に対し、私は強く警鐘を鳴らしておこうと思う。

 

エンジン機構のハイブリッド化、二種混合動力ですら車の運転からある種の「意思」を奪っていくとするなら、自動運転システムが人間から奪うものの大きさは計り知れない。

 

人間の感覚は他者のその動きから理解が可能なものが多い。

この中で他者の行動に注意を払わなくても構わないと言う事態が訪れると、人間はいつか他者の行動から相手を理解する能力の減衰を起し、相互理解能力の低下を起す可能性が高い。

 

またハイブリッド車でガソリンの消費が減少しても、その分高い車両を買っている現実は、例えば5年と言う歳月で車を代えていくなら、、5年間で総合的に支払うガソリンの代金とハイブリッド車のハイブリッドである為の代金では、5年間のガソリン代金の差額の方が遥かに安く、この意味ではハイブリッド車は紙幣の数が一定のものなら他の消費を抑制している現実を持つ。

 

これが何を意味するかと言えば、食べ物を減らして自分が痩せながら、しかも生物の能力の中でも最上位に重要な能力を失いながらハイブリッドの自動運転の車に乗って、「便利だ、便利だ」と喜んでいると言う事だ。

 

それまでの自分の秩序やモラルが壊れる最も身近な例は病気で有り、動けなくなって自分でトイレに行けない状況でパイプに拠る排泄を経験すれば、その意味が良く理解できるかも知れない。

初めて経験する者は自分が完全に崩壊してしまったような気がするかも知れないが、基本はその通りだ。

 

「おねしょ」をしても良い状況と言うのは、その人間が病気をしている、或いはもう動けなくなった時に初めて必要となる、通常では忌避すべき状態に対するもので、「おねしょ」以上に重要な危険回避行動をこうした非常事態の対処に頼っていると、やがてその非常事態が普通になってしまう。

 

つまり「病気」の状態になってしまうと言う事になる。

 

更に冒頭でも述べたように、アクシデントや災害と言うものは混沌と秩序の中に常に種が有り、何かを避けると他の予想も付かない混沌が顔を出してくるものだ。

 

人類がこれまで文明や便利さに拠って失って来たものはとても大きい。

 

その上に生命維持のための基本的な本能すらも失えば、ある日突然全く予想も出来ない簡単な事象に拠って滅ぶ時が出てくるかも知れない。

 

自動運転に拠って減少するとされる事故は、ある日突然、恒星と惑星運動の些細な変化に拠って、或いはこれまでも大方の大惨事がそうだったように人為的な簡単なミスで、それまで減少したとされる自動車事故をたった一日で全て取り戻す事になるかも知れない。

 

この感覚は少ないかも知れないが、私は自動運転システムが、悪戯に形式だけの延命措置を行う人工呼吸器のように見えている。


[本文は2016年1月26日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]