2021/01/23 05:55


 

[Modern Monetary Theory]若しくは[Modern Money Theoy]と呼ばれる「新古典派経済論」に対する最先端経済論が発生してきているが、一般的には頭文字を取って「MMT」と表記される現代貨幣論を指す。

 

これに拠ると、国家が発行する紙幣は、政府が発行している為、国債をどれだけ発行しても紙幣さへ発行し続ければ、自国通貨で有れば破綻は起きない。

尚且つ、政府は紙幣の所有者では無いから、基本的に赤字にならず、市場は借金が増えれば増えるほど、個人資産を増大させることができると言う考え方だ。

 

政府が国債を発行しても、通貨を発行してそれを買い取って行けば、国債の償還は税金で行う必要は無くなる。

そもそも税金にしても、通貨の発行が無ければ国民は払えない訳だから、この点で言えば通貨供給はインフレーションが増大しない限り、可能と言う事になる。

 

また一般家庭の経済形態では限度が発生するが、国家財政の場合は理論的に限度が無い、若しくは漠然とした限度は存在しても、そこへ辿り着くまでに財政的目標は達成してしまう為、小さな経済形態との比較はなじまないとされている。

 

近代の経済学は古典主義、新古典主義、ケインズ経済学のように、少しずつ何かを加えながら変化してきているが、ここで言うなら、国債の発行を将来の増税と考える「リカード、バロー」の「等価理論」などは古典主義、市場価格を労働賃金と生産品の価格調整で考えたセイの法則くらいが「新古典主義」の初期となり、これに需要の理論を加えたケインズの理論は「新古典主義」に対するアンチで在りながら、「新古典主義」を包括する。

 

そして近年、こうしたケインズ経済論の対極として、MMT(新貨幣概念論)が台頭し、ケインズ経済論との間に激しい議論が展開されてきているが、ケインズ経済論が新社会主義的な要素をもっていた為、新しい貨幣論はある種の「閉鎖性経済論」の性質を持っている。

 

アメリカ合衆国が前大統領にトランプ氏を選出したように、個人主義、ブロック経済的な要素が強い風潮が求めた経済論なのだが、この概念は新しいように見えて、最も原始的な概念でも有る。

 

古典的な「等価論」で出て来たリカード・バローだが、ここでは国債の発行は将来の増税としたものの、国債の発行に拠って市場経済は劣化しないとされていた。

政府がそれだけお金を使えば、その分だけ経済が発展するから、国債の発行に拠って不景気は起きないとされていた。

 

この点で言うならMMTも国債の発行が市場の富を増やすとしている概念に近く、「新古典主義」やケインズ経済論以前の概念に近いと言える。

 

MMTの概念は確かに先鋭的では在る。

しかしこの概念は「貨幣制度」に対する概念で有るから、貨幣が持つ初歩的な役割、物品取引のコンテンツ、流通対価としてのコンテンツなど、既存でも動いている基礎的な役割に関しては効力が無いばかりか、緩やかに「破綻」へと向かわせる。

 

貨幣は元々持っている流通対価代替機能に、その時々に応じて色んな概念を乗せて発展してきたが、ではその初期の機能はもう必要ないのかと言えば、現在も初期機能を包括して動いている。

 

債券や株式、マネタリーだけに機能している訳ではない。

分かり易く言えば我々人間がそうだが、人体と言う機能は300万年前と何も変わらないが、この有限体積の中に入っている脳の機能は空間的、時間的制約を持っておらず、社会の変化から脳が持つ概念は破格に拡大してきた。

 

心と体は2つで1つなのだが、脳の機能は体の持つ基礎的な機能を、それが在って当然であるがゆえ、常に忘れて物事を考えている。

 

これと同じ事が新貨幣概念と基礎貨幣概念との間に発生していて、膨らんだ株式、債券の概念は、物品取引対価代用物としての通貨の影響力を軽視するし、基礎貨幣概念からは新貨幣概念は仮想に見えてしまうが、これらはそのどちらも正解にして誤りと言える。

 

貨幣が持つ基礎的な役割の上に株式や債券概念が乗っている為、これらは常にバランスが必要になる。

しかし人間の脳が夢や希望へと向かう時、体の有限性を忘れるのと同じように、株式や債券の重要性を考えた瞬間から、貨幣が持つ基礎概念は薄く意識されてしまう。

 

更にこの無限性の新通貨概念が発展して行くと、人間の体に相当する通貨の基礎概念までも、コントロールできるように思えて来てしまう。

 

結果はどうなるかと言えば、体を維持するためのエネルギーが犠牲になって、脳の拡大性概念の為のエネルギーに使われる事から、体が衰退しながらも夢は膨らむ一方になって行き、やがてベッドで横になっていなければならない状況に陥っていながら、あれもできる、これもできると夢が膨らみ、いつしか体と心は分離して行く。

 

最後は死んでしまっていても、それを認識できず、死霊になって体を腐らせながら、「大丈夫だ、必ず挽回できる」と言う状態になり、諦めれれば全て終わりになるから諦める事もできず、体が完全に腐食して分解されても、延々「まだ大丈夫、挽回できる」と言う意志だけが残って行く事になり、それすらもやがては消滅する。