2021/02/06 17:45

10粒の豆を上から下へ播いた(まいた)時、その各々の豆が行き着く先は地面なら重力と回転に拠る慣性の運動力が弱まった時一番近くに在る窪みであり、板の間なら微妙な傾斜の一番低い場所へと豆は転がっていく。

 

同じように特に相手を意識していない本人が任意に話す言葉は、その本人に全く関係の無い第三者の中でも、「高い場」に在る者の所へは届きにくく、少しでも低い場に在る者の所へと届き、この場合の高低は地位の事を指してはいない。

 

受動で有るか能動であるかと言う点に有り、自己が主張をしたい者は「能動」、人の意見を参考にしようとする者は「受動」となるが、自己が主張をしたい者と言うのは、自身が持つ窪みが自分に拠って埋められていて、尚且つそこが主張したいと言う点で盛り上がっている事から他者の言葉は届きにくく、反対に自身が主張を予定してない者は自身の窪みが残っている分だけ、他者の言葉が入って来易い。

 

思い出してみれば皆経験が有ると思うが、自分が自信満々だった時他者の言葉を聞いていただろうか・・・。

自身がこれまで生きて来て一番心に残った言葉は、順風満帆な時に聞いた言葉だっただろうか・・・・。

 

否、誰もが一番記憶している心に残る言葉は、おそらく自身が最も傷つき苦しんでいた時、他者からかけられた言葉だったのではないだろうか。

 

自身が低いところに在るとはこうした意味である。

 

冒頭の豆の話で言えば、豆を播く人が任意ではなく誰かに向けて投げたとして、それを受け取る者は大きな傘を逆さまにし、一粒も逃すまいと待ち受ければ、播かれた豆の多くは受け取るべき者の手に確かに届く。

 

しかしこれを豆を播く者があいつにだけは渡さないと思って避ければ、受け取ろうとしていた者はこれを受け取ることは出来ず、せっかくこちらへ向けて播かれたとしても受け取る側が予め傘を差して避けたなら、豆を播いた者が望んだ相手には絶対届かない。

 

傘はまともに差せば凹凸の凸となり、逆に指せば凹になり、我々は言語の嵐の中で日々瞬間ごとに傘を差したり逆にしながら暮らしているようなものかも知れない。 

 

それゆえ言語や文書に拠る理解とは、その内容よりも、むしろ他者が発する言葉に対して自身が傘を差して避けるか、逆にしてでも多く受け取ろうとするか、そのどちらの状況に在るかと言う点が一番重要になる。

 

他者の言葉とは結局他者ではなく自分がどう思うかと言う事なのである。

 

その前後のいきさつからどうしても気に入らない相手の言葉は、それが神仏の如く精神から発しているものでも邪鬼が囁いているように聞こえ、反対に愛する者が語る言葉なら、例え悪魔の囁きでもその中に美しい花を探そうとする。

 

言語や文章はそれを自分が発している瞬間は肯定も否定もされていないが、他者の発する言語や文書は聞いた瞬間から肯定しようか否定しようかの判断が始まり、この中で僅かでも自身が気に入らないキーワードが出てくると、相手の話す言語、文章全てに遡って否定されていく。

 

この場合は理解などは初めから存在せず、全てが否定しか無いが、ではこうした否定のキーワードはどこから出てくるかと言えば、日常の自身の状況に拠って否定キーワードが増減し、こうして景気が悪く一般庶民の暮らしが思わしくない時はどうしても否定キーワードが増えてくる事になる。

 

そして言葉は鋭角的、先鋭になって行くのであり、いったんこうした傾向に陥るとほんの僅かな事でも攻撃的な言葉が使われ、こうした言語が多く使われることに拠って脳内はその状態を通常として行く事になり、このような傾向が増加すると社会は加速的に他者の失敗をあげつらい、攻撃する許容範囲の狭い社会とへと変化して行く。

 

我々が日常の会話で用いている言語の組み合わせは必ずしも文法に照らして合わせて間違いの無いものと言うわけではない。

むしろ文法通り喋っている時は殆ど無い。

 

にも拘わらず会話は成立し、文章に至っても文法上間違いが無くても内容のない文章は山ほど存在する。

 

言語や文章の本当の必要性を自身の意思を伝えたり、或いは記録すると言う点に求めるなら、間違いの無い言葉遣い、間違いのない文章が良い言語、良い文章と同義では無いのである。

 

予め敵意を持って他者の言語や文章に接するなら、そこで探しているものは相手の瑕疵であり、相手が何を伝えようとしているかを理解しようとする努力は既に消し飛んでいる。

 

こうした中で自身が理解できないのは相手の瑕疵に問題が有ると考えるかも知れないが、理解できないのは初めから相手の事など理解しようとする気が無い、自身の在り様に問題が有る事を考えない。

 

一つ前の三角形の話ではないが、四角い平面を真横からしか見なければ線にしか見えず、正方形の立方体も一方からしか見なければただの平面にしか見えない。

そして我々は自身を立方体として考え、他者の事は一方からしか見ようとしない。

 

誤字、脱字、或いは言葉の間違いは、本当は前後の関係からそれが間違いで有る事を容易に理解できるはずである。

従って心から相手の事を理解しようとするなら、言葉の誤りなど何らの支障も無いものなのだが、自身の状態が悪ければこれを許容できない。

 

現在の日本の状況は「言葉の魔女狩り」状態である。

 

芥川龍之介晩年の作「西方の人」が彼の死後他編と共に発行されたが、この末文付近に書かれている芥川の文章は明確におかしい。

しかし発行人はそれを承知で発行すると後書きしている。

 

確かに末文付近は文法上も表現上もおかしい・・・。

だが、「西方の人」を読んだのは中学生の頃だっただろうか、私は本の中から錯乱してもがく芥川を感じ、読みながら既に遠くこの世にいなかった芥川に対し、「芥川、死ぬな」と心で叫んでいたように思う。

 

人はきっと間違った言葉、間違った文章でも、いやそれであるがゆえに真実の自身を伝える得る時がある。

 

他者の間違いを公の場であげつらい、その事で自身の知性や正当性を表現しようとする事は、2000年以上も前から既に心浅き者の所作と戒められている。