2021/02/21 17:55


千葉県鴨川市から館山へ抜けるルート128号、この途中に江見海水浴場が在り、現在は閉じられているが、海から少し離れた土手に座り、113円のコンビニおにぎり2個を微糖コーヒーで流し込みながら、打ち寄せる波を見ていたら、自分でも気が付かない内に、右目から涙が流れていた。

 

以前に比べ「死」と言うものに関係する機会が増えた事は確かだが、そんなに悲しい訳でもないのに、何も思っていなかったのに、それでも人間は涙が流れる事が有る事を知った。

 

また少し前までは「死」などそんな恐れてはいなかったが、この数年異様に「死」が恐ろしい。

それも自己と言う存在の消滅に対する恐れ、と言う高尚なものではなく、単純に痛いのではないか、苦しいのではないかと言うリアルな苦痛に対する恐れだ。

 

それゆえ少し年上の人と話をする度、「死は恐くないですか」と訪ねるのだが、大方の人は私より死との距離が遠いか、曖昧なようで、明確な答えは帰ってこない。

生きている人間にとっては誰も経験した事が無いのだから、まあ無理もない事だし、いきなりそれを聞く私が間違っているとも思う。

 

だが、こうして「死」を考える時、どうしても思い出すのが「Agnese Gongea(アグネス・ゴンジャ1910~1997)と言う女性の事だ。

「マザー・テレサ」と言った方が良いか、いや、それすらも今は多くの人に忘れられているかも知れないが、彼女がハーバード大学で行った講演の衝撃は、今以て瑞々しさを失う事が無い。

 

貧困でパンが食べられない事だけが「飢え」ではない。

誰からも必要とされない、誰からも愛されない事に対する「飢え」こそが最も深い「飢え」だと言った、あの低いがずっしり響くラテンなまりの言葉を聞いた時、愕然としたものだった。

 

仏に祈って極楽浄土へでは、現状が肯定されずに、曖昧な未来にそれを先送りしたに過ぎない、そう思っていた私に取っては、今死に行く者が最も必要する事が自己肯定だろうし、生まれて親すらもいない子供、障害を持つ人に最も必要な事は、「あなたは必要な人なんですよ」と言う祝福だと言うアグネスの言葉は、まさに救いそのものだった。

 

後世、修道女は看護資格を持たないから、医療ミスも多かったとする意見も有ったが、そもそも医療ミスの段階にすら至らず、死んで行く人の多かった事に鑑みるなら、それは現実に対する忠実さだったとも言える。

 

現在の日本は昔のカルカッタ程貧しくはないだろうし、飢えで死んで行く人も少ないだろうが、親を施設に預け、そこでは確かに孤独は無いかも知れないが、多くの人に囲まれながら孤独になってはいないか、自己肯定出来て、死んで行けるだろうか・・・。

施設へ入れる事が本当に親に対する愛だろうか・・・。

 

情報は発達し、多くの友に囲まれているように思っているが、その中で孤独を感じてはいないだろうか。

心を、優しさを、愛を求める根底に「飢え」は潜んでいないだろうか・・・。

 

幸い探したらYoutubeにマザー・テレサの動画が残っていたので、貼り付けて措いた。

これを観てどう思うかは自由だが、この機会に「自分が飢えていないか」「世の中が飢えで一杯になっていないか」深く、考える機会にして頂ければと思う。

(注・ゲストのコメントは聞いている価値が無いので飛ばした方が良い・・・)

 

動画中、ベイルートの子供たちの救出の話が出てくるが、「この時マザーの祈りが通じたのか、翌日戦闘は収まった」と言う解説が出てくるが、これは誤りで、アグネスがイスラエル、パレスチナの両方の将軍に直談判し、停戦が成立したのである。

訂正しておく。