「兄弟」 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2021/06/12 18:24



幼い頃からそうだった・・・。

匂いが解らない。

最盛期の金木犀の香りですら、微かにしか感じない私の嗅覚は、何故かしら身内や親戚の誰かが死ぬ時だけ、反応していた。

それはまるで草が繁茂する時に発する勢い、萌えるような匂いであり、尚且つどこかでパウダーを感じさせるもので、誰かが死ぬ1週間くらい前から始まる。

 

5月24日くらいから、こうした匂いを感じ始めていた私は、5月27日、既に言葉がしゃべれなくなってしまって、携帯のメールでしかやり取りが出来なくなっていた弟から、メールが返って来ない為、彼の死期が来ただろう事を知った。

 

27日の夜、南房総の総合病院から電話が入り、もうそろそろ意識が無くなりかけているので、何とか都合が付くなら、病院まで来てくださいとの事だった。

 

介護が必要な父親の事、家の事を采配し終えた頃には、もう28日の0時を過ぎていたが、私はそれから南房総まで車を走らせた。

能登から南房総まで600km以上あるが、もう幾度となく通った道なので、そう不安はないが、如何せん睡眠時間が0と言う現実は少し厳しかったか・・・。

 

途中高速道路が2本にも3本にも見えるようになり、流石にこれはまずいかと思ってSAで4時間ほど仮眠を取った為、病院に付いたのは昼過ぎだったが、意外な事に弟は絶望的に痩せていながらも、意識はしっかりしていて、私が暫く南房総に滞在すると言ったら、「兄貴に死を待たれているのは辛い」と言い、「もう充分世話になった、次に会うのは自分が死んでからでいい」、そう言うのだった。

 

寝たきりの父親、心臓が悪くて月の半分は寝ている家内の事を気遣ってだろう事は解っていたが、兄弟だから解る。

この場面で一度言い出したら、妥協はない。

それは自分も恐らく同じだから解る。

 

「本当にそれで良いのか、覚悟はできているのか・・・」

「兄貴には世話になった、これで最後の別れもできた、もう充分だ」

「礼は言わなくて良い、兄弟だからな」

コロナウィルス対策で、たった10分しかない面会時間はこんな静かな会話で終わり、それからまた私は能登への帰途についた。

 

600km走って、たった10分・・・。

家に帰りついたのは5月30日の午前3時半、これで2日間、ほぼ徹夜だった。

だが、間違いなくここ数日の内に弟の死はやってくる。

 

父親のショートステイの手配、家の事を親戚に頼むなど、私はあらゆる準備を始めなければならなかった。

そして6月1日、病院から電話がかかってきた。

「弟さんがお兄さんに会いたいと言っています」との事だった。

 

そうか、その言葉を待っていたぞ、きっとそうなると思っていた。

もう覚悟はしたが、それでも最後孤独は辛いに違いない、それで良い、それだからこそお前は多くの人に慕われ、良い仲間にも恵まれたんだ。

 

俺はきっとそれができない、諦めてしまう。

だから誰にも慕われないし、それらしい顔をしながら誰も信じられない・・・。

 

幼い頃からそうだった・・・。

明朗で堂々とした弟に対し、卑屈で極端に人見知りが激しい兄弟の光は弟で、影が兄だった・・・。

先に都会へ出た弟が羨ましくて、何度も田舎を逃げ出したが、その度親に引き戻され、いつしか私は諦めた。

 

そしてこの家は私を最後にして、自分の子供を縛らないよう、いつしか故郷を捨てるように育てた。

お前は自由奔放にカメラマンとして活動し、多くの人を育て、その生き方で多くの後進達に道を示した。

偉大で有り、我が家の誇り、我が一族の血の誇りだった。

 

10年前、父が脳梗塞で右半身不随になり、それを悲観した母は翌年自らの命を絶った。

そして4年半前には、弟のお前の癌が発覚した。

 

俺は持っているものをすべて失っても、お前を救いたかった。

私の光、私の夢だった。

 

だが、助からない事が解ってから、お前は俺に尋ねたよな・・・。

「もうどうしてよいか解らない」

その時俺は言ったよな、自分ができるかどうかも解らないくせに、「泣いても笑っても同じなら、俺は笑う」と・・・。

 

お前はその言葉通り、強く死に向けて準備を始め、そして結果である死を早く望んでいた。

今その時に及んで、最後に動くことのできるたった1人の身内で有る、兄を頼ってくれた・・・。

恐らくこれが兄として、お前にしてやれる最初で最後の兄らしい事になるだろうが、「待ってろよ、絶対1人で淋しく死なせはせんからな・・・」

 

6月1日の深夜、能登を出た私が南房総の病院に付いたのは翌日の正午前、病室へ入って人工呼吸器を付けたお前に、「来たぞ、今、来たぞ」と告げる私に2度頷いたっけな・・・。

 

それで少し安心した私は、お前の携帯を充電器に繋いで、振り返った。

だがその時、もう口を開けたまま、息をしていなかった。

まるで、風もないのに花びらが静かに落ちるように、月が雲に隠れるように、何事もなかったかのように、お前は旅を終えた。

 

亡くなった事を、お前の親しい友人に連絡したら、すぐに東京から5人の、お前を慕う人たちが集まって来て、南房総での葬儀の手伝いから、火葬に至るまで手伝ってくれた。

俺は正直、お前が羨ましかった・・・。

自分が死んでも、ここまでしてくれる友が私にはいない・・・。

 

彼らは方向音痴の私の為に、遺骨を乗せて故郷に帰る途中まで送ってくれ、SNSでの追悼サイトまで作ってくれ、そこにはお前を慕う多くの人から追悼の言葉が寄せられていた・・・。

 

この事実がお前の生き方に対する答えの全てだ。

「よくやった、大したものだ・・・」

 

能登でも親族を集めて葬儀を済ませ、四十九日までの期間、床の間の祭壇に遺骨は安置されているが、そこに飾られたお前の写真も、彼ら友人たちが選んで作ってくれたものだった。

 

とても良い表情の写真で、どこか誇らしげにも見える。

「兄貴、俺はやったぞ、頑張ったぞ、そして今度は兄貴、兄貴の生き方を見せてくれ」

そう言っているようにも見えるが、済まん、今はどうしても力が入らない・・・。

 

だが、もう少し虚無に浸ったら、きっと俺はまた歩き始める・・・。

「俺はお前の兄・・・」

「闇を切り裂く稲妻、天の禍だからな・・・・」