2021/07/08 21:20

この2つ前の記事でスケールフリーの事を書いたが、人間の脳や視覚はまさにこのスケールフリーの中にあって、これは空からチョコレートの粒が沢山降って来たとして、これをより多く集められるのは、より大きな器をかざす事で為され、チョコレートを溶かして容器を作り、それを大きくして行けば、より多くチョコレートが集まったところへ、更に多くチョコレートが集まっていく事になる。

 

人間の記憶は視覚を通じてその多くが処理されていることを考えるなら、その視覚や記憶の大きなところに更に視覚や記憶が引っかかって行く。

その結果より多く記憶や視覚の引っかかった部分をして、それが正しい、若しくは絶対的なものとして考えるようになる。

 

つまり人間の信念や感覚と言うものは、ただ見たいものを見て、聞きたいことを聞いているだけとも言えるのである。

 

その上で先の花やサイコロの話に戻るなら、人間は同じ「赤」と言う色で実に多様な情報処理をしているが、その処理に欠かせないものが「形状」で有ったり「質感」、またその物質なり生物が占有してる状況と言うことになり、ではこうした情報処理能力が単に一人の人間が生まれてから以降身に付けた、「経験」や「知識」だけで為されるかと言えばそれは不可能に違いない。

 

人類を生物の流れの中で考えるなら、DNA的には人類では無い時の記憶が36億9900万年であり、そして人類の記憶が100万年しかない。

しかし人類はこの100万年で、地球と言う閉じた空間を無限として考える生物的進化をし、それがスケールフリーで加速を付けて増大した結果が今日の姿と言えるだろう。

 

人間の脳は実は基本的に時間、空間の制約が無い。

それゆえ無限も有限も完全に理解することは難しい。

 

だから言葉で地球は有限だと言う事を知っていたとしても、視覚的に見渡せる範囲では地球が有限である事を理解することはできず、そこで発生するものは経済であれ思想であれ、宗教に近い感覚であれ、全て理解できていない不完全な無限をしての漠然とした意識であり、空間的、時間的に限界のあることを、言葉ではそう言いながらその実、理解していない。

 

あらゆる生物、物質に形が有るのは何故か、そんなことを考えるとき、漠然とこの宇宙は空間であり、そこに限界が有るからこその体積であり、容積であるように思え、そして全ての生物や物質が隙間無く空間に存在し、何か一つが欠けていくと、そこへ欠けたものと同等のものが瞬時にして現れる。

 

すなわち誕生と消滅が同時に膨大な数で発生し、そのそれぞれが例え小さくとも空間を占有し、そして占有したことを情報として外に開いていく。

 

またいかに微小なもので有っても、それがバクテリアや細菌であっても、それが欠損して行くことは、他の全ての存在に対しても影響して行くが、全体の総量に占める特定の生物や物質の形状、質は問われていない。

 

この世界は確実に限界を持ちながら、その中では何が発生しようと関係の無い「自由」、つまりは限定された自由や、「不確定性無限領域」を持つ。

簡単に言うなら空き缶と言う外から見れば限界がある空間の、その中が暗闇であるなら、そこには無限が存在しているようなものと言う事ができるか・・・。

 

しかし基本的にはその空間には限りが有り、いわば全ての物質や生物は総量が限定された中での自由競合の中にあり、これを考えるなら全ての存在は、その存在できないものの犠牲の上にあることになるが、ここに特定の意思を感じる必要が無く、それは逆べき分布と言う等しくも理不尽なものと無意味の中にある。

 

それゆえ物質や生物はその領域を不確定性の中で主張しなければならず、それが物質や生物の体積や容積であるとも言えるのである。

 

また人間は生物と物質を違うものとして区別するが、そこに潜んでいる原子の構成は同じものであり、原子核の周囲を回るものはその数が分かっていても、どこに存在しているかが分からないために、確率によって粒で有りながら波の特性を持ち、霧のような形で存在する。

 

そしてこれが止まった状態だと存在ではなくなる。

 

実は生物も物質もこうして確率の中の不透明な部分、いわば隙間によって存在しているようなものであり、これは全宇宙がそうしたものなのかも知れない。

 

先が分からないからこそ存在し、その中で空間を占める我々人類も他の動物も、植物も、物質もそれが単体では存在できず、しかも互いにこの宇宙のあやふやな部分によって存在が許されているようなものであり、ここに特定の人類の範囲でそうした仕組みを都合よく考えれば「神」が現れ、或いはまた人間が考える地球環境が現れるが、そこに初めから意味は無い。

 

そして例えば赤い花も間違いなく人類が外に対して開いている情報や、昆虫が開いている情報を共有し、それがために赤い花となっているのであり、これは偶然ではなく、その個体が行った選択なのである。

 

従って人類が今の形状なのは、地球に有る全ての生物や物質が外に対して開いている情報の中で有ればこそ、この形状と容積を有していると考える事もできるのである。

 

こうしたことを考えねば確かに人類には無限の可能性を想起できるが、このことはもしかしたら無知によってそう見えているだけかも知れない、そう思いたいと言うことでしかないと言う可能性も、考えておく必要が有るのかも知れない。

 

人間の脳は確かに制限がない。

だがそこに完全な無限を概念することもできなければ、有限であるものもその視覚を超えて概念できない。

 

つまり人間は自分の周囲のことは必要以上に危機感を持つが、それが視覚に入らないものに対する考え方は極めて独善的なものにしかならないと言うことであり、このことを知って自分の考えを持つことと、知らずに考えを持つのでは、同じ行動であっても赤い花に好かれるか、嫌われるかの差が生じているかも知れない・・・・。

 

私は特に人類に好かれたいとは思わないが、できれば赤い花には嫌われたくないものだと思う容積と体積でありたい。


[本文は2011年6月12日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]