2021/08/17 20:02

聖書の記述に「狭き門から入れ」と言う言葉が有る。

 

これはより安易な道より、困難だと思われる道から入った方が、結果は良い場合が多いと言う意味のようだが、中々言い得て妙な言葉だ。

例えば男女の仲を取って見ても、それほど安定した関係から恋人の関係になると言うことばかりではなく、むしろ一番弱く薄かった関係が発展して、夫婦となるケースの意外な多さである。

 

またビジネスでも同じ事が言え、初対面の時は「こんな奴」と思った相手が、気が付けば一緒に事業の中のパートナーとなっている場合も有る。

人の世で人が為すことと言うのは歴史を鑑みるまでもなく、こうした意味ではどこかで結果が先に有り、その結果に基づいてあらゆる関係が微妙に組み合わされて行くような、そんな不思議な部分がある。

 

今夜はノーベル医学生理学賞を受賞したペニシリンの発見者、「アレクサンダー・フレミング」、彼の「狭き門」に付いて少し見てみようか・・・・。

 

アレクサンダー・フレミングは1881年、スコットランドで農家を営む両親の第4子としてこの世に生を受けるが、第4子と言う立場から両親が営んでいた農場を継ぐこともなく、16歳になったフレミングは船会社に勤務し始める。

 

そして通常で有ればフレミングはこのまま一生船会社に勤めて終わるだろうはずだった。

彼にはこの時点で医学にも研究者にも興味は無く、そうした道へ進むべき資金もなかった。

 

だがフレミングが20歳の時の事、彼の伯父が亡くなり、ここで彼はその遺産を相続することになる。

伯父の遺産は膨大なもので、フレミングがこのとき手にした遺産は、何と彼の12年分の年収に匹敵するものだった。

 

この出来事が有って資金を手にしたフレミング、彼はここで当時ロンドンに12校有った医学校の1つ、「セント・メアリー病院校」へ入学し、医学の道を目指すことになるが、その動機は非常に分かり易いもので、「医者になれば食うには困らないだろう」と言うものだった。

 

ついでにどうしてフレミングが「セント・メアリー校」を選んだかと言えば、彼が18歳の時、軍隊の訓練兵としてロンドンに駐留していたおり、たまたま「セント・メアリー校」の水球チームと対戦し負けたことから、この学校を知っていただけのことだった。

 

1906年、フレミングはこうして医師の資格を取得する。

 

そしてこの時フレミングには多くの選択肢が有り、例えば自分で開業医となることも可能だったし、他の給料の良い病院へ移籍することも可能だった。

しかしセント・メアリー校へ残ったフレミングの、その残留したと言うか、残留させられた理由がまた、こうした言い方をして良いものかどうかはともかく、本当に適当な理由だった。

 

実は軍隊に所属していた頃、フレミングはその抜群な射撃の腕を認められていて、こうした経緯からセント・メアリー校でも射撃クラブに所属していたのだが、フレミングに辞められてはセント・メアリー病院射撃クラブの地区優勝はおぼつかなくなる。

 

そこで強く病院から慰留を勧められたフレミングは、大した考えもなくセント・メアリー病院に残留したのだった。

 

こうしたいきさつから第一次世界大戦によってセント・メアリー病院が破壊されるまで、同病院で研究を続けることになったフレミングだが、彼の研究室と言うか、与えられた部屋はあまり掃除されることもなく雑然としていて、これは第一次世界大戦後セント・メアリー病院が再建され、それに伴ってフレミングが復帰した後も同じで、大変いい加減なものだった。

 

だがある日、彼はここで実験のために細菌を塗って有ったシャーレにくしゃみをしてしまい、3日ほど経過してこの実験用シャーレを見てみると、自分の唾液がかかった部分の細菌が増殖してないことに気がついた。

 

これが動物の唾液や卵白に含有される抗菌物質「リゾチーム」の発見につながるが、1922年のことだった。

 

また1928年、さすがに散らかりすぎて、研究室のどこに何が有るのかが分からなくなってしまったフレミングは、ようやく重い腰を起こして研究室の片付けを始めるが、ここでこうした事態になることの方が疑問だが、またしても黄色ブドウ球菌を塗ったまま放置されていたシャーレを発見し、そのシャーレには有ろうことかカビが生えてしまっていた。

 

実に研究者としては許し難い怠慢さだが、この辺がフレミングが「運命の人」と言われる所以かも知れない。

そのシャーレのカビの部分の端が透明になっていることを発見したフレミングは、このカビが黄色ブドウ球菌を死滅させていることを発見するのである。

 

これがペニシリンの発見だった。

1929年、この抗生物質に関する論文を発表したフレミング、しかし当時の医学界はこの絶妙ないい加減男の研究を全く無視し、何の関心を持たれずして10年の歳月が流れる。

 

だが1940年、偶然このフレミングの論文を読んだ「ハワード・フローリー」と「エルンスト・ボリス・チェーン」の2人はペニシリンの精製に成功し、ここに世界初の抗生物質薬剤が誕生するのであり、このことをして「ペニシリンの再発見」と言うのである。

 

また面白いことだが、このペニシリンの臨床試験に最初に成功しているのはフレミングだが、その時のいきさつもまた本当に「こんなことで良いのか」と思える適当さ加減になっている。

 

ペニシリンが医薬品として製造されるようになる少し前、友人の医師にペニシリンを精製してもらったフレミングは、危篤状態で既に死を待つしかない患者に、試験的にペニシリンを注射してしまうのだが、何とこの危篤状態の患者はその後回復し、病院を退院できるまでになった。

 

偶然とは言え危険な人体実験に成功し、ホッと胸をなで下ろしていたフレミング、しかしそこへペニシリンを精製してもらったくだんの医師から電報が届く。

「ペニシリンを実験として猫に注射したが、猫は死んだ。人間に使うな・・・」

電報にはそう書かれて有った・・・。

 

第二次世界大戦にはその製品化に成功し、戦場で傷ついた多くの兵士を救うことになったペニシリンの発見。

この発見によってフレミングはハワード・フローリーやエルンスト・ボリス・チェーン等と共にノーベル医学生理学賞を受賞し、イギリス王室から「ナイト」の称号を受けた。

 

1955年、フレミングは心臓疾患によって逝去したが、ペニシリンの発見と言う偉大な作業は、フレミングの生涯に措けるただ一つの偶然が欠けても成し得なかったかも知れない。

 

フレミングの適当さ加減が許される環境であったセント・メアリー病院、そして偶然に出るくしゃみや、カビたシャーレ、まるで往時のドリフターズのコントのような偶然がなければ、今に至っても多くの人の命が失われているに違いない。

 

いやもっと踏み込んで言うなら、ペニシリンは何としてもこの世に出たかった、もしかしたら世に出ることは決まっていた、そしてフレミングがノーベル賞を受賞するのは、まるで日が昇り日が沈むように決定的な事だったのかも知れない。

 

ちなみにフレミングの「くしゃみ」の方はどうなっているかと言うと、リゾチームは現在抗菌剤として医薬品になっていたり、食品添加物として私たちの身近なところで活躍してくれている。