2022/02/05 19:39

例えば晴天の日と嵐の日では人間の考え方が違ってくる。

重大な事、緊急なことに対する考え方はそう変わらないが、どうでも良い事や余り関心の無い事は極めて大きな変化を示し、これは生物の視覚神経システムと同じような作用を持っている。

鳥類の食物連鎖上最高位に君臨する猛禽類の中でも、鷹(たか)の視覚は2km先までピンポイントで獲物を認識するシステムと、そこまで鋭い焦点を持たないものの、視覚視野全体を漠然と把握している2種のシステムが、一瞬の隙間もなく交互に作用して視覚全体を構成していて、このシステムは人間も同じである。

通常我々が視覚と言われて意識するのは、目が見える事を指すように考えられるかも知れないが、視覚は絵や文字を認識するシステムと、半ば無意識に働いている視覚とによって構成され、はっきり見たいものや関心の有るものは視力の上限まで使って認識する仕組みになっているが、ではその時視覚は見たいものだけを見せているのかと言えばそうでは無く、視覚視野に映る全てを取りあえず漠然と認識していて、緊急事態にはすぐにその対象物に対して焦点が合わせられるようになっている。

つまり視覚には対象焦点と、その他のどうでも良い視覚対象が有ると言う事で、ではこうした事からその他のどうでも良い視覚対象は、本当にどうでも良いのかと言えばそうでも無い。

実はどうでも良い対象視覚システムは「全体」を把握しているのであり、これによって人間は自分がその視野全体のどこに存在しているのかを認識しているのであって、その他のどうでも良い視覚が有って始めて、その時点で必要な視覚の焦点対象が決定しているのである。

従ってこうした漠然とした、或いは緊急性の無い視覚と言うものは直面する現実には大きな効果はないが、全体の行動をどうするかと言う根本的な部分では、その生物の存続を決定付ける重大な働きをしているので有って、実は気象の変化に措ける人間の思考パターンの変化は、このどうでも良い部分の視覚情報に似ている。

簡単に言えばこうだ・・・。

明日は給料日と言う時に、買い物に行って買うものには大きな考え方の変化はないが、これがシリアの内戦に対する国連決議で、シリア政府が非難された事に対する反応となればどうなるか・・・。

もっと言えば最高裁判所の裁判官追認投票などはどうなるかと言う事だが、天気が良ければ追認し、天気が悪ければ追認できないと言う事が充分有り得る事になる。

だがそうしてどうでも良い感じで追認された最高裁判所裁判官は、実は日本国憲法に違反しているか否かと言う重大な判断を下す人間なのであり、この事が回り回って我々の生活や価値観を変えてしまう事すら有る事を考える者は少ない。

そしてこうした気象や地球の活動に変化が生じて来た時、人間はその変化に対応する事から、相対する現実の変化を認識する事は出来ても自身が少しずつ変化してしまう事を認識できない。

この事から人間は劣化を起こし、劣化そのものは進化と同じで現状に対する変化だが、ある種の分散でも有る事から、それまで持っていた通常の感覚を失わせ、為に意識しない間に緊急対応が通常のような錯誤を引き起こしていく。

それゆえ気象や気象が引き起こす災害、地震災害の中で最も恐ろしいのはこうした意識されない自身の変化なのであり、これが集積して社会全体を狂わせ、しいてはその国家の経済を押し潰してしまう事に気がつかない点に有る。

緊急対応に目が行っている間にそれまでの「通常」の全体が劣化して行き、その中で例えば震災で死亡した人間より国内一般の自殺者の方が遥かに多い人数になっている事に気がつかない。

また震災の復興でも、その復興と言う緊急事態の中でそれが通常化し、それまで存在していた正義や秩序が「復興」や「絆」の名の下に虐げられてしまう事を覆い隠してしまう。

そして復興が終わって綺麗な街になった頃には、そこに仕事が無くなり、それまであらゆる機会を通じて援助や補助を求める事に重点が置かれてきた事から、いつしか自身が生産して利益を得る事を忘れた社会が出現し、結局その地域は経済的に破綻するのである。

文明社会は気象とその変化をあまく観ているところが有り、社会の変化は人間の意識的な変化によるものと思っているかも知れないが、その実気づかない間に一番大きく人間社会の意識を変化せしめているものは、気象や災害なのだ。

地球規模の気象、地殻変動は今日明日の買い物程緊急性はないかも知れないが、ゆえに無意識に蓄積された部分が全体を少しずつ歪めて行く事に自分自身が気づかず、そしてその事が広義では自分の今後の進むべき道、考え方をいつしか大きく歪めていることに注意が行かない状態を引き起こすのである。

大きな気象や地殻活動の変化は、いずれの時代でも国家や社会に大きな混乱をもたらしているが、いつの時代でもその気象や地殻活動の直接の被害よりも、その後人間が起こす大きな混乱による国家的変化によって、より多くの人命が失われている現実が有る事を忘れてはならない。

気象だけが変化していくのでは無い、それに伴って我々一人々々もまた変化して行っているのであり、この点にに措いて「元の状態」は常に存在し得ない事を思わなければならない。

そうでなければ後に災害の直接の被害など比べようも無い被害が出現して来るのである。
隣家の当主は今年86歳と言う村の長老だが、その長老をして曰く、飲料水にしている山水が随分と細くなってしまった。
こんな事は生まれて初めての事だと話していた。
事実この地方は5月初めから今までに雨が降った日は8日しかなく、その8日も雨は半日と続かなかった。

私は水飲み百姓ゆえ雨ばかりも困るが、こうも雨が降らないと更に困った事になる。
おそらく明日も晴天ならば私の顔は曇り、雨が降れば機嫌が良いのではないだろうか。
人が白いと言えば黒いと言いたくなり、赤いと言えば緑にも見えると言いたくなるこの性格・・・、私の原点は実は気象に有ったのかも知れない・・・、

いや、気象のせいにしてはいけないかな・・・。

[本文は2012年8月6日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]